処女
区内にありながら家賃四万を誇る、ワンルームの我が天国。趣味のカーモデル作りにより多少居住可能区域が圧迫されていても、その認識は変わらない。具体的に言うと、作業机の上を散らかしたまま外出しようが、母親に勝手にゴミに出されない点だとか。
実際俺が毎日毎日朝早くに出勤し慣れない仕事に四苦八苦し終電近くまで残業しても頑張っていられるのは、この部屋があるからだと言っても過言ではない。家に帰ってベッドに寝ころべば、この間の休みに下塗りまでしたランボルギーニとセルシオが目に入る。待ってろ、金曜こそは定時で帰ってお前らの塗りを完成させてやるぞ、とそいつらに語りかけているうちに寝落ちしているのが常だった。
その日も俺は、人も疎らな電車内で寄りかかってくるオジサンと共に振動に身を任せていた。中途半端な時間までの残業だと、かえって満員電車に遭いやすい。これくらい遅くまで割り切って残った方が座れることが多いのだ。そして五分の一くらいの確立で、隣に座った若い女性が肩にもたれかかってくる。今回は外してしまったようで、なんだか実父と似た臭いのする中年だった。幸い彼は俺の最寄りの一つ前で起きて降りていったので、降車時に気を遣う必要は無かったのだが。
家賃が安いぶん、自宅まで歩くと四十分はかかる。停めていたチャリを快適に飛ばし、それを二十分に短縮。車も歩行者もいないので考え事をしていても危険はない。やがて見えてきたアパートの灯りを見つめ、そして俺はあることに気がついた。
訝しく思いつつ、自転車から降りる。そして自分の部屋の扉の前にしゃがみ込む、それをしっかりと実在のものだと理解した。
「……なに、してるんだ、有希」
「あ……遅かったね、吉くん」
見あげた彼女、藤沢有希の顔はひどく汚れきっていた。
「ごめんね、お風呂とか、着替えとか」
冷蔵庫から取り出した冷ご飯、お気に入りなので買いだめしている冷凍食品のお好み焼き。
「気にすんな。むしろ、俺の服なんかでごめんな。もう店、やってないから」
電子レンジで六分半温める。その間に彼女には風呂に入ってもらい、俺は急いで部屋を片づけベッド以外に人が座れるスペースを作った。
「ううん、吉くんのにおいで、安心する」
手抜きにも程がある即席夕飯に口をつけ、ふんわりと有希は笑った。それが十年前とあまりにも変わっていなくて、胸が締めつけられるように痛んだ。髪の長さこそ変わって長く伸びてはいるが、顔つきはまるで同じように思える。何かのイベントで貰ったTシャツはその華奢な身体には大きい。
「なあ、有希。今までどこに行ってたんだ」
その問いに、有希は下を向いた。机の木目に目線を彷徨わせ、短く息を吐く。
「……ごめんなさい、急にいなくなって」
十年前、高校生の時。俺と有希は付き合っていた。
しかし彼女は、ある日突然失踪した。
「そういうことを聞きたいんじゃない。本当に、心配してたんだよ!」
つい声を荒げると彼女は細い肩を跳ねさせた。驚かせるつもりはなかったのだ。慌てて宥めるとまた泣きそうに微笑む。
「……お父さんとお母さんが、悪い宗教に入ってね。それで、その宗教の施設に住むことになったの。私は嫌だって言ったんだけど、連れてかれて。吉くんに、言えなくて」
「宗教……?」
俺は当時の記憶を掘り起こした。付き合っていたとはいえ、そこまで俺たちはベタベタしていたわけではない。家庭環境の拗れの詳細を知らなくとも、無理はないだろう。
元々物静かな性格の有希とインドア趣味の俺は、同じ図書委員だったことから親交を深めたわけで、付き合うこともその延長のようなものだった。勿論健全な男子高校生だった俺には相応の欲はあったものの、いつも柔らかく微笑む有希が手を繋いだだけで真っ赤になっているのを見れば、そんな邪な思いは消えてしまっていた。
「吉くんが信用できなかったとかじゃないの。話したら、絶対止めてくれるって思ったから。そうしたら、それがバレたら吉くんが危険な目に遭うってわかってたから。だから、突然いなくなって、ごめんなさい」
有希は震える声でそう言い、頭を下げた。蛍光灯の下で見る彼女は高校生だった時より、随分とやつれてしまっていた。ぎゅっと握りしめられた拳は痩せて骨ばっている。「いいんだ、もういいよ……無事でよかった。それでここに来たってことはその宗教からはもう抜けられたのか?」
「……逃げてきたの」
まるで消えてしまいそうな声だった。
「逃げた? 大丈夫だったのか」
「ええ、追手はあまりいなかったから。もう振り切れたとは思うけど」
「それで……」
そんなに汚れていたのか、とは流石に女性に対しては言えなかった。しかし、よく俺の家を探し当てたものだ。あの頃住んでいた一軒家からは随分と離れているというのに。そういえば有希は、その実家にも来たことが無かったかもしれない。
「ごめんね、ほんとに、こんな急に押しかけて。迷惑だとはわかってるんだけど、他に行くところが思いつかなくて」
「いいんだよ。大変だったんだろ、頼ってくれていい」
「優しいなあ。吉くん、昔と全然変わってないね」
「……有希もだよ」
確かに健康的だった容姿は疲労したようにやつれてしまっているが、大人の女性になった彼女は未だ魅力的だった。
謀らずも彼シャツ状態になってしまっている現状に、少なからず興奮していたり。仕方がないだろう。付き合っていた当時はキス以上のことはしていないのだ。彼女が失踪してからしばらくは落ち込んでいた俺も、大学生や社会人になってから恋人がいなかったわけではない。キスもそれ以上も有希以外の女としたことはあるが、初恋のように顔が火照った。彼女の笑みに俺は弱い。
「ねえ、吉くん」
突然、有希が身を乗り出した。大きく開いた襟ぐりから肌が覗いて、思わず目を逸らす。
「な、なんだよ有希」
「あのね、迷惑ついで、ってわけじゃないんだけどお願いがあるの」
洗濯してしまっているため、彼女は下着をつけていなかった。白くなだらかに続く丘陵に、目を奪われた。
「私を、抱いて」
ずり落ちたシャツから見えた細い肩に伸びる手を、止める術があるなら教えてほしい。ごくりと生唾を飲み込んだ俺を見て、有希はあの頃と同じ笑顔を見せた。
痛くないか、と聞けば有希は小さく頷いた。俺の中の彼女は女子高校生のまま時が止まっていたから、二十六の今でも何に向けてかわからない背徳感を抱いてしまう。薄いシャツの布地をまくりあげると、薄い水色のレースがあしらわれたショーツがあらわれる。洗濯機をまわす時に一瞬見てしまったブラジャーと揃いのデザインのものらしかった。高校時代に淡く想像していた理想の下着そのもので、柄にもなくまじまじと見つめてしまう。
「……あんまり、見ないで」
「あ、うん、ごめん」
すると今度は、謝んないで、と怒られた。女心は難しい。更に布を掴んだ手を持ち上げ、手を通して脱がせるといよいよ胸が高鳴った。綺麗だ、と思う。手足の肉づきはやや悪いが、スレンダーの体躯にしては出るところは出ているのだから、なんというかたまらない。高校生時代の俺よ、お前なんであの時手を出さなかった。このクソ童貞。
ゆっくりと、なるべくやさしく触れるようにした。彼女は、もう非処女なのだろうか。一瞬考えて馬鹿だと思った。心の何処かで、有希にはずっと穢れなきままでいてほしいと思っていたのだ。スカートを膝丈で揺らしていた彼女は若かった俺にとって、天使か聖母にも近い存在だった。
「吉くん、私もう子どもじゃないんだよ」
もっとひどくしていいよ、と潤んだ瞳で有希は俺の背中に手を回した。そう言ったはずの彼女が爪を立てないように気を遣っているのがわかったから、もう我慢しようとは思わなかった。十年前の恋を、あざ笑うように。
賢者タイムと向き合う前に、やらねばならぬことがある。
「……案外、面倒見がいいんだね」
「俺をなんだと思ってたんだ」
温めたココアを出してやれば、有希は嬉しそうに口をつけた。裸の上にブランケットをひっかけただけの格好も中々に扇情的だ。
「それにしても、なんで急に」
「急じゃないよ、私はずっと吉くんとしたかった」
「おま……、そんなこと」
「赤くなってる、かわいい」
思わず頬を掻いた俺をからかうように彼女はくすりと笑った。また、やり直せるだろうか。
「なあ、有希」
「あーあ、これで終わりなんて悲しいなあ」
言いかけた言葉を遮るような、大声。
「は……? 終わりって」
「私ね、死んじゃうの! もうすぐで。宗教団体に無理やり孕まされて、その子供が生まれちゃうから。だから、もう吉くんとはいられない」
「な、に言ってんだ」
有希は勢いよく仰向けになった。ブランケットがまくれてまた白い肢体があらわになる。その薄い腹に、いったい何を孕んでいると。
「逃げてきたのは、死ぬ前に吉くんに会いたかったから。死ぬ一瞬前まで吉くんといたかったから」
瞼をおろし、彼女は浅い呼吸を繰り返した。額の上にいつの間にか浮いていた汗は玉のようで、その時が近づいているのだと悟った。震える睫毛には涙が滲んでいる。
「私ね、赦されるなら藤沢有希から、高瀬有希になりたかった。ほんとだよ。十年間ずうっとそう思ってた」
「有希、大丈夫か。救急車……」
ふるふると彼女は首を横に振った。辛そうに眉を歪め、その手はシーツを握っている。ぽたり、と雫が落ちた。
その時俺は、有希の体に現れた違和感に気が付いた。
腹が、まるで何か別のものが胎内から突き上げているように蠢いているのだ。それは外への出口を求めるように皮膚を何度も内側から叩いた。その度に彼女は呻き声をあげる。やがてそれは、叫び声にも近いものになっていた。
そして、下腹部からついに流血が始まる。救急につなごうとして掴んでいた携帯を投げ捨て、慌ててその傷口を掌でおさえた。わけがわからなかった。血と内臓らしき臭い弾力ある物体が、隙間から零れ落ちていった。
「待て、有希。どういうことなんだ、おいっ!」
うっすらと、彼女は目を開けた。こんな時にまで微笑んで、有希は掠れた声で呟いた。
「最期に、吉くんに逢えてよかった。大すき」
指の間を、血にまみれた何かがすり抜けて伸びていった。唖然として見ているうちに、それはすっかり三十センチほどになるとその先端にふっくらとした蕾をつくった。
血を撥ね飛ばす勢いで開いた花弁は、自らの重みで揺れ。
そしてその白い百合の花は、ただじっと見つめるように首をもたげていた。
その時俺は、もはや自分も赦されないのだと知った。