大衆は現代の御伽話を求めている
抽象的ですごく分かりにくいことばだと思う。ただ今何が求められてるか?で具体的なものを出すと矛盾する。特に問題がシリアスになる。実際シリアスは扱いが難しい。それと呼応するようにコメディの扱いも同様になる。それは何故失敗してきたか?と言うと、もっと奥に本当の価値があるのに、表面的なものに振舞わされてきたからだと見てる。
実際作るときはこういった具体性は重要。ただそんな風に作っていたら、本当にそれ物語を創ってるのか?と言いたくなる部分がある。あまりにオリジナリティが無い。一番重要な部分だけ模倣して、あとは逆に全く似ても似つかないものにすると、受けるし個性があるって作品が出来ると思う。そういったものをずっと探してきてやっとたどり着いたのがタイトルの結論になる。
現代多くの人には頭を使わない物語が好まれてる。これ根本的には多くの人は物語を求めてない。物語は楽しみとしてめんどくさいんだ。物語にどっぷリ嵌るようなタイプはこれが分からない。だからなろうでは小説マニア的な人はいまいち活躍できない。だから物語の面倒な面を減らすように物語の良さを味わいたい。もうお前読者じゃないって言いたいような人しか読者にいない。それがなろうの多数派の現状。それに見合った物語とは何か?それが実は御伽話だと悟った。
ただ古典的御伽話は面白くない。でもある程度それが有効なのがディズニーの成功にあると思う。日本がそれと違うのは、御伽話が持つイメージが古典的なのが良く無いから。それをじゃ古典的じゃなくして、御伽話とばれない御伽話にしてしまえば良いのでは?それが漫画の正体だと私は見ている。
どうしてシリアス忌避の中シリアスがなくならないのか?それを探っていくと、簡素にした実写とは違うあっさりした描写のリアルなものやシリアスなものが漫画では多い。これ実写の劣化じゃないのか?とずっと思ってきた。全く違う。確かに実写の劣化でしかないつまらない漫画も多いが、たまに筋展開はちとっとも刺激的じゃないのに、これ面白いぞって変な作品がある。その正体が分かった。実写や古典的なありきたりな話を、簡素にして情報量を減らした物語は、脳に効くってのが分かった。ごちゃごちゃして面倒くさいってのが、他人事で興味が無いお悩み相談を聞いてるような面倒さを覚える。まさに感情移入の逆の効果が出る。
なろう作品はさぞ斬新なんだろうと見ると、細部はすげー古典的なアリガチなシリアスがちらほら散見する。何故こんなものが面白いのか?実際売れる作品はそんなの滅多に無い。珍しいものでリゼロみたいなものは稀有な作品。特別な作品はちゃんと特別なものを持ってる。だが大多数のなろう作品は、それがなろうに共通の特別性でなろうの中で差別化するような特別製は皆無。何がこれ面白いのか?と見てると、簡素な物語になる。描写も、物語の筋展開流れもくどくない。
あこれ魅力なんじゃない?と気が付いた。頭をあまり使わないって前提で見てると、いやな意味でごちゃごちゃしてくると、その瞬間に頭を使って、折角軽く呼んでた心地良さが壊される。シリアスが持つ面倒さとは違う問題が発生する。根本的に物語の把握自体が面倒になってくる。内容より、情報量の扱いで軽さが消えてしまうんだ。頭を余り使わない状態を出来る限り、山谷を作らずに安定して維持し続けるのが、心地良く読む秘訣になる。それはテンポが良いって解釈するんじゃないだろうか?
実写的なものだからラノベには関係ない。それは無い。共通性は数多くある。ただ描写を簡素にするだけじゃないし、文章が平易になるだけじゃない。すべてにおいて情報量を減らすような部分がある。そうして最低限の情報量で、アリキタリな古典話や実写系の人物描写を描いていく。これが不思議、ありきたりで飽き飽きした話が、最適化したことで生じる独特の心地良さになる。
もっと言うと内容は古典的、実写的なのに、漫画脳アニメ脳に合った面白さがそこにはある。そういった内容とファンタジーはとても相性が良い。それでこれは現代に生まれた新しい御伽話の形なのではないか?と私は見た。
今、近代小説に追いやられて過去当たり前にあった物語が消えてしまった。それらが漫画文化の発達で帰ってきた。私達は近代小説に物語の価値はこうだと長らく洗脳されていた。その洗脳のくびきを今私は解き放とうとしてる。もう近代小説の素晴らしい作品を価値だと洗脳されてラノベを低く見るのは止めた方が良い。
怠惰に気軽に楽しむニーズに答える。それが多くの読者にとっての価値なのではないか?読書姿勢も作品の価値に私は含まれると思う。作品に真摯に真剣に向き合う姿勢も価値だと思うし、それを否定はし無い。だがその逆の態度でしか得られない物語の面白さも私は価値だと思ってる。
この両方の価値は根本的な物語に向き合う姿勢が違うので、安易に比較できないと私は考えてるのだがどうだろうか?




