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【9】甘く綾なす(3)

 竜に絆される形で二軒目に向かう。行き着いたのは洋裁店からそれほど遠くない場所にある理容店だった。最初に目に付いたのは斜めにクルクルと回る赤白青の帯。次は入り口横の木柱だ。鋲で真新しい紙が貼られている。そこに書かれた『お化粧も承ります』の文句に、なんとなく先が読めた。洋髪にすると日常に支障が出そうなのは、竜も分かっているだろうから。


 ここも竜の馴染みの店らしい。竜が顔を見せると、店内にいた気の良さそうな女性が愛好を崩した。「竜治くん、いらっしゃーい!」と元気の良い、黄色い声が響く。


「今はお父さん出てるけど」

「いやー。今日は親父さんじゃなくて、琴美(ことみ)さんを指名したくて」


 一瞬驚いた表情を見せた彼女だったが、竜の後ろに立つ私に気付くとすぐに納得した顔を見せる。


「ああ! もしかして噂の!」

「沙耶子さんです。メイクだけお願いしたいんですけど」

「任せてちょうだい」


 琴美さんと呼ばれた女性は今にも踊りだしそうな足取りで私に並ぶ。歳は私と同じくらいだ。彼女は「素敵なワンピースね」とにっこり微笑むと、私の手を取って鏡面台の前へと導いた。革張りの茶色い椅子に座らされ、鏡越しに顔を覗きこまれる。


「べっぴんさん。目が切れ長で少しキツい印象かしら。柔らかくする?」


 そう言って私の目元を優しく撫でる彼女からは良い香りがした。蘭に似た甘い匂いだ。艶香をまとう彼女に、じゃあお願いします、と言おうとしたとき。すぐに竜の声が割って入った。


「目元はできればそのままで。むしろ強気な印象を前面に出すようにお願いしたいです」


 目を瞬かせたのは私だけでなく、琴美さんも同様だった。鏡に映る竜を見る。窓際の木椅子に腰掛ける竜は長い脚を組んでくつろいでいて、すでにこちらを見ていない。太腿にのせた雑誌をめくる顔は涼しいもので、こちらの反応など我関せずだ。


「……好みがハッキリしているのね。竜治くんは」


 ぽそり、と琴美さんが呟いた。若干だが声が震えている。笑いを堪えているのが背後の空気からも、鏡に映る表情からもよく分かった。自分の赤い顔が視界に入るのが堪らなくなり、私はすっと鏡から目を逸らす。


 店内は外からの自然光で満ちている。東南に付いた窓からの光が店中の壁や天井、吊り下がる電灯を明るく照らす。壁は木板張りだが、それを埋めつくさんと貼られるのはポスターだ。理容用品や化粧品のものもあるが、一番多いのはキネマトグラフの広告。私の視線に気付いた琴美さんが口を開く。


「凄いでしょう! 頑張って集めたの。キネマ……というより、活動弁士(※)の追っかけだったんだけどね」


 「華鳥(かちょう) (あかり)って知ってる?」と声を弾ませる彼女の様子はまさに恋する乙女だった。白粉をつける手付きがわずかに緩み、ハァ、と熱い息が吐かれる。明後日の方向に向いた目が潤むのを見て、ああこれは重症だ、と思った。窓際に座る別の重症者は相変わらず雑誌をめくっている。よく見ればあれも映画雑誌だ。


 結局メイクが終わるまで話題はそれのみで、その活動弁士との出会いから、彼を目的に観に行った数々のキネマについて熱心に語ってもらった。聞けば昨年まで帝都に身を置いていたようで、髪結や美容に関する女学校に通っていたらしい。実際に住んでいた人から帝都の話を聞くのは初めてで、会話自体が新鮮だった。彼女の香らせる蘭の匂いが、まだ見ぬ都会のものに感じられた。



「女の子同士で楽しかった! また来てね、沙耶子ちゃん」

「はい。ありがとうございました」


 手を振る琴美さんに笑顔で返す。竜は代金を見せてくれなかったが、自分でお金を溜めてまた来たいと思えるくらいに楽しかった。




「初めての人とずっと話して、疲れたでしょう」


 店を出るなり竜が振り返る。通りの先でチリーン、と鈴の音が鳴る。


「アイスクリン食べませんか? 少し待ってて下さい。買ってきます」

「悪いな。ありがとう」


 素直に甘えれば、竜は軽い足取りで鈴の音の元へと向かっていく。二軒回ってもまだ十一時くらいだ。私は通りの端の花壇の淵にハンカチを広げて座る。少しうつむけば、深青色のプリーツから伸びる自分の脚が見える。膝下からパンプスを履いた足先まで。これほど脚をさらけ出すこともなかなかない。羽織っていたショールを一旦外し、脚にかける。


 ワンピースはお腹で切り替えになっていて、上部は白い丸襟ブラウス。長く取った袖口がキュッと手首を締める。顔は流行りの化粧を施され、髪もサービスと言われて軽く整えてもらった。大したことはされていないようで、梳いてみれば別人の髪のように手指を流れる。


 竜は普段の容姿も手放しで褒めてくれるが、今日はひと際楽しそうに口を開く。疑わしいところもあるが、そりゃあ、持ち上げられるのは嬉しい。今の私が吸っているのは彼と同じ空気だろうか。隣にいてもおかしくないだろうか。


 私だって浮ついている。道行く人々がこちらをチラチラ窺い見ても、不思議と恥ずかしくはない。そよ風が洋装に包んだ身体を撫でる。感じたワンピースの肌触りに、自然と笑みがこぼれた。



「沙耶子さん、お待たせしました」


 顔を上げれば、両手にアイスクリンの棒を持った竜がいる。私を見下ろす形で「どうぞ」と彼が差し出したのは、棒ではなくアイスクリン側。乳白色の甘そうな先がわずかに光沢を帯びている。


「手渡しで寄越せ」

「駄目ですよ。口開けてくれないと」


 試しに竜の方へ手を伸ばすと、するりと腕を引かれてしまう。じろ、とやや睨めつけるように見上げても、竜は『引きませんよ』と言いたげに口の端をあげるだけ。溜息が一つ漏れた。


「ほら、早くしろ」


 ん、と顎を上げると、アイスクリンが近付いた。紅でくっきりと彩られた唇を開き、先を一口。くわえた瞬間、唇の内に冷たさが張り付く。牛乳の甘みが舌先に伝わって、無意識に唾液が出る。棒も受け取ろうと手を動かすと同時に、竜の方は手を離した。


 日焼けしていない、アイスクリンと似た色の手指は細長く綺麗だ。そのまま口元に持っていかれる彼の手を目で追い掛けると、パチリと視線が合う。薄い唇に添えられた手の影で、彼の喉が一度上下した。


「……ありがとうございます」

「私が言うことだろう」

「いえ。……美味しいですね」


 まだ食べていないのに何を言っているのだ、と隣に腰を下ろした竜を見れば、彼は私から顔を隠すように反対側を向いて、アイスクリンを食べ始めた。

【補足】

※活動弁士とは、無声映画の上映中に状況説明をしたり台詞を入れたりと、それぞれのセンスや力量でもって語りを付ける職業の人です。人気弁士となればその集客力は凄まじく、映画館同士による引き抜き合戦が行われていたとのことです。有声映画であるトーキーが普及するまでは花形職業とされていました。


こういった専門職の栄枯盛衰を想像するの、好きなのです……。お読み頂き、ありがとうございます。

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