【8】甘く綾なす(2)
竜に連れられた先は、商店街に立ち並ぶ店の一つだった。ずっと前からあるらしいが、人生で数度しかこの街に来たことがない上に、竜に出会うまでは洋装などには縁がなかった。よって初めて見る店だ。
両隣との境目から白漆喰が塗られた壁に、木製の開き戸が一つと、円窓が一つ。円窓はいわゆるステンド調で、店内の明かりを通して多彩な色ガラスが落ち着いた光を放つ。見上げると軒先に金属製の看板が下がっている。『コノハナ洋裁店』。丸みのある洒落た文字だ。浮き彫りの花が咲く木戸に手を掛けた竜は慣れた様子で、私は彼の背におそるおそる付いていった。
「あら、鈴生様いらっしゃいまし。……お一人でないのは珍しいですわね。本日はどういったご用件でしょう?」
店内に漂う、ふくよかで独特の香り。そこに女性の上品な声がのせられる。
「咲弥さん、ご無沙汰してました。今日は女物の服を一着、頂きたくて」
扉を閉め、竜の背中からひょこりと顔を出す。澄んだ白を基調とした店内に、服飾の生地が整然と並んでいる。やや広めにとった空間には木製の簡素な人形が二体立っていて、一体はフロックコートを、もう片方はワンピース――だったと思う、膝丈までの黄色地の洋服を着せられていた。
店の奥から出てきた女性は二十代後半ほどで、本人も洋装をまとっている。白くひらひらしたシャツに膝が隠れるスカート姿。整えられた眉と耳を隠す結髪が印象的な、外見に気を遣う美人だ。竜の背中越しにばっちり目が合ってしまい少したじろいだが、彼女の愛想のいい笑顔は変わらなかった。
「着ていきたいので既製品が良いんですけど、スリーサイズは測ってもらえます?」
「かしこまりました。では少しの間、お連れ様をお借りしますわね。鈴生様、お待ちになるならコーヒーはいかがでしょう?」
「じゃあ、ぜひ」
この辺りでようやく分かってきた。この買い物が、私の着る服を選ぶものだということを。洋服の値段が想像もつかず半ば呆然とする私をよそに、「とりあえず一番似合いそうなものをお願いします」「もちろんですわ」と他二人の会話は続く。
場の雰囲気に流されるまま店内を進んでいると、すぐ後ろから竜の鼻歌が聞こえてくる。その余裕を分けてくれ、と思いながら振り返ると、私に付いてきていた竜はピタリと止まった。
どうやらここでお別れらしい。店のさらに奥へと続く扉の前。西洋風の小さな円卓と椅子が置かれているから、竜は待つ間、そこでお茶でも飲んでいるのだろう。いまだに何をされるのかよく分かっていないから、一人になるのは少しばかり不安がある。気持ち目元を寄せ竜を見上げると、目の前に立つ彼は慎重に頭を下げ、私の耳元で、甘えるように囁いた。
「沙耶子さん。戻ってきたらスリーサイズ、教えて下さいね」
「……? ……ああ」
だから何だ、それ。もはや周知のようで聞くに聞けない。いつもより近い距離に戸惑いつつ、曖昧に返したところで奥の部屋へと促された。別れ際の竜はとびきりいい笑顔だった。
「鈴生様にコーヒーだけお出ししてきますので、少々お待ち下さいね」
そう言って品の良い美人――咲弥さんはもと来た部屋へと戻っていった。店番には見えない。若いが、あの余裕ある振る舞いからして店主なのではないだろうか。帝都から来たのか、雰囲気がこの辺りの女性とは違うように感じられる。
それほど大きくない部屋を見渡す。表よりは少々雑然と物が置かれた部屋。一歩先からは厚い敷物が床を埋めていて、奥には二階へ上がるための小階段が備わっている。注文内容が書かれたような紙束や鉛筆、いくつもの生地が敷物の上を転がっていた。
「お待たせしました。どうぞお履き物を脱いで、お上がりになって」
パタン、と扉を閉めて咲弥さんが言う。草履を脱いで踏み心地のいい敷物に上がれば、そこからはさすが専門家というところで、手際よく準備が進められる。
言葉が出ないほど自然に着物を脱がされる。腰巻き一つになった私の周りを咲弥さんは流れるように動き、尺を取る。どうやら身体の採寸をしてもらっているらしい。巻き尺を巧みに操る彼女の手技があまりに見事で、恥ずかしさより感嘆の情が勝った。床に置かれた紙にはアルファベットの三文字が踊る。その横に書き足される数字を眺めて、私はようやく口をきけた。
「……すみません。もしかしてスリーサイズって、このことですか」
「ええ。お胸、お腹、お尻の周囲のことですわ。日本語だと、女体三位寸法。いやに艶かしい響きですわよね。……綺麗なくびれしてますわ。沙耶子様、でよろしかったでしょうか」
『H』の横に二つの数字が並ぶ。
「私の名前……」
「鈴生様から、沙耶子様のお話は嫌というほど聞かされますから。……まぁ私ったら。大事なお得意様のお話を嫌だなんて。鈴生様には内緒にしてくださいませ」
クスクスと口元に手を当てて咲弥さんは笑った。その様子は実に上品で、それでもどこかに少女っぽさがある。ハイカラ、というだけではないだろう。気品と童心が同居しているところが、竜に似ていると思った。
「竜も寸法、測ってるんですか?」
「それが、測らせてくれないんですよ。いつもご自分で寸法を取って、持ってきますの」
「いつもぴったりですから、良いんですけどね」と、彼女は眉尻を下げて微笑んだ。吐息がかかるほど距離は近く、手先も触れる。私だけではないのだと、明らかに安堵する自分がいた。
洋装のお洒落に関しては好みすら浮かばない無知だ。咲弥さんによって色々と合わせられた後、一枚のワンピースを着せてもらった。草履を合わせるわけにはいかないと言われ、おまけで洋靴を準備してもらう。足の甲に纏わりつく革の感触に戸惑いながらも扉を出ると、こちらに気付いた竜は即座に立ち上がった。
「ああ、沙耶子さん。お似合いです。爽やかな白と深みのある青。清らかなところに気勢もあって、揺らがなそうな雰囲気がなんとも沙耶子さんらしい」
竜の勢いに押され、思わず身を引いてしまう。相変わらず軽い口だが、いくらなんでも褒め過ぎじゃないか。疑るように彼を見るが、向こうは全く気にしない。片手を自身の口に添えるも、にやつくのを隠せない様子だ。「いいですね」と竜が満足そうに目を細めれば、咲弥さんは誇らしげに口角を上げる。
「ワンピースだけだとまだ寒いですわよね」
「カーディガンかショールがあれば」
「何枚かお持ちしますわ」
服を選んでもらいながら勉強はしたものの、まだ知らない単語が出る。竜の前で色々と着せ替えをさせられた後、流行色だという薄紅色を少し鈍くした色合いの羽織物を足すことに決まった。
コーヒーの芳香で満たされた店内は非日常の空気だった。これが竜の吸いたい空気なのだろうか。夢見心地ではあったが、最後に竜が自身の財布から出した代金も夢のような金額だった。最初から私が出すなんて言い出せる雰囲気ではなかったが、これでは実際にも不可能だ。どうしよう、という気持ちが頭をよぎる。
店を出る際に竜の顔を覗き見れば、「お代は別で頂いてますから。気にしないで」と彼は笑った。竜がそんな風に言うならと、どこかで安心してしまう。優しい表情と声音だった。
咲弥さんに見送られて店を出てすぐのこと。
竜はへらっと表情を崩す。先ほどまでの品の良さは何処へやら。透いて見えるのは、はっきり言ってしまえば春情だ。
「沙耶子さん。スリーサイズ、いくつでした?」
「誰が言うか馬鹿!」
「教えてくれるって言ったじゃないですか」
私が目を尖らせれば、竜はわざとらしく手を掲げ、悲しむような顔をつくる。
「私が意味を知らないと分かってて言ったんだろう! からかうなよ!」
「からかってなんて。俺は至極大真面目に知りたいんです」
「もう知らん!」
竜に背を向けて歩き出せば、縋り付くような彼の声が商店街の一角に響く。
「ああ沙耶子さん! もう一軒! 今日は沙耶子さんに甘えさせて頂く日なんです! 付き合って下さい!」
私が甘える日の間違いじゃないのか、と息を吐く。だが背中越しに見た竜の顔は私より嬉しそうで、それだけで私は何も言えなくなってしまった。




