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【7】甘く綾なす(1)

 次の日。珍しく竜は朝早くに私の家を訪れた。朝仕事を終え朝食も済ませた頃だ。そのとき母と私は水仕事をしていて、弟は学校の準備、父は家を出た後だった。


御馳走様ごちそうさまでした。美味しかったです」


 いつもと変わらない笑顔で出されたのは弁当箱と包み布。昨日、晴一と別れる前に「竜に会えたら渡して欲しい」と頼んでいたのだ。竜の家にも顔が知れた彼なら出来るかもしれないと思ったからで、包みを聞かれたついでに甘えてしまった。


「いや。家にいるならもっと良いもの食べられただろうが……」

「まさか。これ以上のご馳走なんてありませんから」


 竹編みの弁当箱は空だと分かる重さで、薄黄の包み布は丁寧にアイロンがかけられていた。パリッとした状態のこれを見るのは買ったとき以来だ。弁当箱はピカピカに拭かれているに違いない。かえって悪いことをしたな、と私は前より綺麗になって戻ってきた二つを見下ろした。



*****



 景色が急速に流れていく。


 車両の通路を挟んで正面の窓を焦茶の木枠が縁取っている。それを額縁とするならば、中に映る景色は水彩画のように淡く美しい。水が張った田園は眩しくはない日を受け、時折細かに光り輝く。その先にある麓の集落にはとっぷりと霞がかかり、陽気にたゆたう。その温かみのある白は、彩色豊かな花花とはまた違う、春の色。


 ガタン、ガタンと揺れる汽車の車内で、今朝の続きを思い出す。


「今日一日、沙耶子さんをお借りさせてもらえませんか」


 母の前で、竜はそのように話した。「おうちのお仕事のことは承知しているのですが、」といつも以上に丁寧に頭を下げる竜に母は少し驚いた顔をしながらも、「ゆっくり行ってらっしゃい」と温かく送り出してくれた。戸口で学帽を被る早太はすごく嬉しそうな顔をしていた。



 昨日のことを聞けば、竜は「なんてことはありませんでした」とあっけらかんに言う。知らないことには答えようがないのだから、実際にそうだったのだろう。家から謹慎を言い渡されなかったのも、さして深刻な聴取ではなかったからかもしれない。ただ、お兄さんについて触れようとすると、竜の顔が少し曇ったのも事実だった。



「沙耶子さん。向こう町は久し振りですか?」

「そうだな。前に行ったのがいつかも忘れた」


 田んぼから飛び立っていくケリを目で追いながら返事をする。出掛ける前に着直したのは手持ちで一番良い着物だ。家の外で待っていた竜はこれを見て、「今日は何でも良かったんですけどね」と笑っていた。


 この汽車の座席は車両の両横に背を付ける形で並んでいる。座席は半分ほど埋まっていて、大きな町に向かうからか、みな洒落っ気がある。袴を履いた中年男性や、上質な着物を纏う婦人。車両の奥で赤子をあやす女性も小綺麗な着物を着て、帯を変わり風に結んでいた。


 隣に座る竜をちらりと見やる。みなお洒落だといっても、洋装は彼だけだ。すっきりとした体躯をさらに引き締める濡羽色のフロックコート。潔い黒が私だけでなく、車内全員の視線を集めている。いつもは二人か、加えても私の家族か晴一ということがほとんどだから、あまり意識していなかった。やはり竜は目立つ。それも不思議と良い意味で。


 普通は見慣れない洋装だが、着られている感じが全くしない、堂々とした態度。彼だけが別の色の世界に佇んでいるようにすら見える。これなら確かに、私が何を着ていても一緒だろう。


「沙耶子さん。……沙耶子さん?」

「……悪い。ぼんやりしていた」


 視線が合ったのにも気付かなかった。こういうの、何と言うのだったか。


「着いたらすぐに二軒の店を回りますよ」


 竜がふわりと笑う。春霞のような、ウトウトしたくなるような笑みだった。中々凛々しい顔付きなのに、つくる表情は甘いんだよなと、そう竜を見つめる私に彼は続ける。


「今日は沙耶子さんに目一杯甘えさせて頂きますから、覚悟しておいて下さいね」

「は……?」


 甘えるって、何をさせられるのだ。私が思わず身構えると、竜はまた嬉しそうに目を細め、周りの空気を春色に霞ませた。



 汽車はまもなく駅舎に着いた。県で一番大きな町にあたるぶん、駅舎も大きい。私たちの町からここまでは単線だったが、ここを起点に複数の沿線が広がるのだ。いそいそとホームに降り立つ他の乗客にならい、私と竜も車両を出る。石積みのホームは話し声と足音で騒がしいが、竜の鳴らす靴音だけが特別に聞こえる。カツン、カツンと、背後で鳴っていた革靴の音。それがふいに止む。


「竜?」


 振り返れば、竜は私から数歩下がったところで立ち止まり、反対側のホームを眺めていた。二車線を挟んだ向こうに到着していたのは同系の汽車。乗客が乗り込むところらしい。人の列の中に山高帽、それに杖まで携えたフロックコートの年配者を見つけて、ようやく「ああ」と思った。あれは帝都行きの汽車だ。


 いつだったか、巷の噂で聞いたことがある。昔、鈴生屋の販路を帝都に広げる話があったのだと。元は竜の父親の案だったそうだ。だが、当時からある程度の仕事を担っていた当代――竜のお兄さんはそれに賛成せず、家は二つに割れた。話し合いは平行線を辿り、そんな最中、竜の父親は病で急逝したという。結局家を継いだお兄さんの方針に従ったのか、帝都進出の話は今はすっかり、綺麗になくなっている。


 竜はその話をしないが、きっと帝都で仕事をしたかったのだろう。彼は父親っ子だったと晴一からこっそり聞いていた。だからそれ以来、お兄さんとも上手くいっていないとも。竜が家の仕事をしないのはお兄さんに反発しているのかもしれない。いつも飄々としている竜だが、家の中ではどうなのだろう。


 帝都行きの汽車を見つめる竜の表情はいつになく真剣だった。過去を憂いているようにも見えない。こういった竜の様子を見るのは初めてで、どう声をかけていいか分からなかった。


「すみません。せっかくのデートなのに、沙耶子さん以外を目に映すなんて。我ながらあり得ない」


 私の視線に気付いた竜がこちらに歩み寄る。人の(まば)らになったホームに、彼の靴音がひと際大きく響く。隣に並び、彼は言う。


「まずは洋裁店に行きますよ。初めてでしょう、沙耶子さん」

「洋裁店なんかあるのか」

「じゃなきゃ、俺のこの服はどこで買ってるんです」


 「いつもはオーダーメイドなんですけど、今回は時間がないから既製品ですね。でも沙耶子さんのスリーサイズは是非とも測ってもらいたい」と、竜は流暢に続ける。彼の買い物に付き合うのはやぶさかではない。だが、『オーダーメイド』『スリーサイズ』とは何だろう。私のってどういうことだ。『フロックコート』は竜のために覚えて久しいが、いまだにその口からは聞き慣れない単語が出る。


 彼の言っている意味がよく理解できないまま、駅舎を出た。考え事はあっても足取りは軽く、通り抜ける風は新鮮で心地良い。大勢の人で賑わう商店街が私たちを迎え入れた。

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