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【5】翳る春色(2)

 待合室と同じ広さの診察室に入ると、消毒液の匂いが鼻をかすめた。先生に促されるまま、つるりとした合皮の椅子に腰掛ける。左方の壁には黒い額縁が掛かっていて、医師免許証の写しが入れられている。


 『水橋 (しずか)』。先生の名前が筆字で書かれていた。額縁の下にはそれほど高くない木棚が置かれ、並んだ瓶の影が乳白色のガラス越しに見える。木棚の上には無機質な防災無線がどかりと陣取っていた。


「その(すみれ)は自分で? それとも竜治くんから?」


 先生には竜の話をしたことがないのに、知っているのか。


「いえ、伊佐木さんです。交通巡査の」

「べっぴんさんはモテるねー」

「ご冗談を」


 軽い会話を交わしながら、私の前に座る先生が器具や試験管を揃えていく。白衣の袖から伸びる先生の両手はカーテンを通した日光を受け、実際よりも淡く黄色付いていた。器具が準備される机側の窓にはクリーム色のカーテンが、端から端までしっかりと閉められている。一方で窓の方は開いているようで、部屋に新しい空気が入るとカーテンの下端がわずかに浮き上がった。今日の外気はまた一段と暖かい。


「じゃあ机の上に腕を上げて、袖をまくって」


 言われるまま、机に右腕をのせる。二の腕の半分ほどまでまくり上げると、「そこまででいいよー」と声がかかる。自分の腕を見下ろすと、肘の内側に青い血管が数本、透けていた。浮き出ているというよりは皮膚の薄さで透いて見えると言った方がいい。先生は私の二の腕をきつくゴム紐で縛ると、じっと腕を見下ろしながら口を開く。


「親指握ってくれるかな」

「はい」

「うん。――キレイな静脈だね?」


 先生の指の腹が私の青をなぞる。その指の感触が見た目より少し乾いているのは、消毒液のせいだろうか。先生は血管の走行を確かめてから一点を定めると、次は弾力を確かめるように軽く押す。


 先生の言う『キレイ』の基準が全く分からず、私は「はぁ」としか返せなかった。脱脂綿で肌を拭かれ、「チクッとするよ」「痺れない?」などと声を掛けられながら血を採られる。あっという間に採血は終わった。抵抗を感じない、鮮やかな手技だった。


「ありがとうございました」

「お礼を言うのはこっちだよ。臨床研究に協力してくれてありがとう」

「りんしょうけんきゅう、ですか」


 私は役所から言われたままこうして来たわけだが、詳しい話は知らなかった。針を抜かれた場所をガーゼで押さえながら、目の前の先生を見る。


「そう。僕はこの地域に住む人たちの健康状態を調べてるんだ。色々と分かれば病気の予防にも活かせるし、ここだけじゃなくて世の中全体の役に立つんだよ」


 並んだ試験管に私の血を移しながら、先生は穏やかな表情で話す。試験管を蓋するゴム栓に採血針が突き立てられると、先生の手の動きでガラスの中を暗い赤が満たしていく。血が分けられた二本の試験管にはどちらも白い紙が貼られ、黒字で『No.1373』と書かれていた。


「自分の結果が知りたかったら、四日後くらいにまた来ると良いよ」

「分かりました」


 先生がわざわざ帝都から来たのは研究のためだったのかと合点する。もちろん治療も行っているから、お爺さん先生の引退の時期にちょうど重なった形なのだろう。いずれにしてもこの片田舎に来て頂けるのはありがたい。席を立って丁寧に礼をすると、「だからいいのにー」と、先生は独特のゆるい笑みを作った。



 用事だった採血も終えたので診察室を出る。待合には誰もいなかったが、通りに面した窓を見れば人の往来が多くなっていた。汽車が着いたのだろう。腰高の位置に備え付けられた四角い窓から、足早に歩く人々と木瓜(ぼけ)の木の一端が見える。私は駅舎の存在を思い出し、「そういえば」と後に付いてきた先生を振り返る。


「昨晩駅舎の近くで火事があったんですよね」

「うん。僕もお酒を(あお)りながら、赤く染まった夜空と、月まで伸びる黒煙を眺めていたよ」


 ……ええと。


「刑事課の人が動いていると聞いたんです」

「人が亡くなっているからね。――網元の新見(にいみ)さんって、知ってる? そこのお嬢さん」

「……小学校で一緒でした」


 学年は三つ下だったか。小学校の卒業以来ほとんど見ていない。実際の歳は十七のはずだが、脳内に思い起こされたのがまだ十つほどの彼女の姿で、余計に胸が詰まる。あからさまに(かげ)っただろう私の顔を見ても、先生の瞳は凪いだように静かだった。つゆほども変わらない声音で話は続けられる。


「彼女だけじゃないよ。まだ警察(おかみ)は隠しているけど、これまでの火事でも娘さんが亡くなってる。今回で四人目だね」


 ふいに窓が軋んで、思わずそちらに目がいった。人の往来は相変わらずせわしない。


「どっちが先だろうね。娘さん(がた)が亡くなったのと、火が回ったのと。亡くなったのが先なら、不審火の正体は鬼火かなー?」


 先生の柔らかな声が背筋をなぞり、簡素な待合室を抜けていく。再び風が吹き、窓が()く。すみに見えていた八重咲きの赤花が一つ、ポタリと地に落ちた。

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