【4】翳る春色(1)
次の日。昼頃になっても竜は顔を出さなかった。
今日は午後に駅舎近くの診療所へ行かなければならない。そのことは昨日竜にも伝えているし、相手方がいることだからここで待っているわけにもいかない。私は白梅の下で一人分の白むすびをささっと食べてしまうと、半分は残したまま弁当箱をしまい、立ち上がった。
竜には途中で会えるかもしれないし、すれ違っても一日会えないということはないだろう。いや、毎日会わなければいけないという理由自体、ないのだが。
町の中心部まで行くから、今日の着物はいつもの野良着よりは見られるものを選んできた。だから布継ぎはないし、それほど汚くもない。午前もできるだけ土が付かないように気を遣って作業した。固く括っていた髪を解き、きちっと畳んだ手拭いを懐に仕舞う。
気持ち普段より身綺麗にして町道を歩いていると、背後から名前を呼ばれた。
「石月さん家の、沙耶子ちゃん」
小川のせせらぎのような、爽やかな声。引かれるように立ち止まれば、町の派出所に勤める伊佐木さんがこちらに歩いて来ていた。
「こんにちは。今日は非番ですか?」
「昨日は夜勤だったからね。朝方まで働いてたよ」
着物姿の伊佐木さんは私に追い付くと「ふぁ」と小さく欠伸をし、やりきったような顔で空を見上げた。淡い水色の空は山の向こうまで続いていて、広く澄み渡っている。どちらともなく自然に歩みを再開すると、伊佐木さんは私を横目で見た。
「今日は鈴生さん家の次男坊と一緒じゃないんだね」
「いつも一緒にいるわけじゃないです」
そう言った後で嘘かもしれないと思い、恥ずかしくなって視線を逸らす。その様子を流してくれた伊佐木さんは続ける。
「まあ昨晩の感じじゃあ、彼も家から出してもらえないかもね」
「……何かあったんですか?」
「おや、まだ聞いてないか。また火事があったんだよ。駅舎から山の方に外れた、掘っ建て小屋で」
何でもない風が寒く感じる。昨晩の変に明るく感じた夜空を思い出し、あれは火事だったのかと腑に落とす。だがそれと竜に何の関係があるのだろう。思わず表情を強張らせると、伊佐木さんは前髪をかきあげながら、少しだけ逡巡するような顔を見せた。
「夜に町を歩く彼の姿を同僚が見たそうだからね。今日、刑事課の人間が話を聞きに行くとかなんとか、ヒソヒソ話していたよ」
火事なのに、刑事課――?
どういうことか聞きたいと口を開こうとしたが、伊佐木さんは私の方を見ていなかった。彼の視線が向く先は私とは反対側の、線路沿いの道端。
「綺麗だね」
群れをつくって咲いていたのは菫だった。緑に茂った円い葉の上を、いくつもの紫色の花が舞う。伊佐木さんは少しだけ道を外れると、鮮やかに咲いたそれに手を伸ばす。プツリ、プツリ。そんな音が聞こえてきそうな仕草で彼は二本の茎を手折ると、うちの一本を私に差し出した。
「……ありがとうございます」
「夜の一人歩きは危ないから、気を付けてね」
「特に綺麗な女の子の夜歩きなんて、見てられないから」と、伊佐木さんは私を見つめながらそう言って、手元の潤う花弁にそっと口付けた。
*****
町の中心部に入ったところで伊佐木さんとは別れた。菫を片手で弄ぶ伊佐木さんに私は軽く一礼すると、彼とは別方向に駅舎への道を進む。駅舎の前は広場になっている。芝に花壇や置き石を備えただけのあっさりしたものだが、紙芝居か何かやっているのだろうか。遠目でも人が賑わっているのが分かった。
広場に差しかかる手前に建つのが町の診療所だ。玄関横に佇む大きな木瓜の木が印象的な木造二階のそこでは、去年からお爺さん先生に代わり、帝都から来たという若い先生が駐在して働いている。
大輪の花が咲く木瓜の横を過ぎ、玄関を入る。入ってすぐ、一段高く敷かれた板間は小さな待合室になっていて、その奥が診察室だ。診察室の戸は閉まっていて、すりガラスの向こうに黒い人影が見えた。草履を脱いで板間に上がり、脱いだものは靴棚に揃えて置く。待合室では年端もいかない子供が二人、床に座り込んであやとりで遊んでいた。
前の患者がいるようだから、待合室の木椅子に掛けて待つことにする。子供たちが見える位置に座ると、男の子と女の子はどちらもそのくりっとした瞳でこちらを見たが、すぐに目を逸らして手遊びに戻る。兄妹だろうか。顔立ちも出で立ちも似ていた。『二人あやとり』をしているようだが、どうやらつまずくところがあるらしい。年上に見える男の子の声が大きくなる。
「そこじゃない! こっち!」
「兄! こっちってどこ!」
高い声で荒げ返す女の子に、男の子は「ここ!」と目と口で懸命に訴えるが、あれでは分からない。とはいえ、糸を張る彼も両手がふさがっているのだ。私は腰を上げた。
「ほら、ここだ。ここに人差し指を入れるんだよ」
二人の前にしゃがみ、指を差す。糸と糸の隙間をちょん、とつつくと、男の子が「そうそう!」と顔を綻ばせた。女の子がその隙間と、他のいくつかに指を差し入れる。そうして男の子の手から糸が離れれば、もたつきながらも『田んぼ』は完成した。
「ありがとうー!」
「ありがとお姉ちゃん!」
「いいや」
顔を上げて喜ぶ兄妹にこちらも笑顔になる。久しく触っていなかったが覚えているものだな、と少しだけ感慨にふけっていると、金属の音を立てて診察室の扉が開いた。温い待合の空気に清涼な風が入ってくる。
「お待たせー二人とも! あらあら、すみませんね。見てもらっちゃって」
「いいえ、あんまり楽しそうだったものでつい」
診察室から出てきた母親らしき女性に頭を下げられたので、こちらもお辞儀を返す。髪を低い場所で結った女性は私とさほど変わらない歳に見える。私の前にいた兄妹はたっと立ち上がると、自身らの母親にぴったり付き添った。
「じゃーね、お姉ちゃん!」
「ああ。じゃあな」
はにかんで手を振る女の子に手を振り返す。その傍らで、母親と先生が挨拶をする。
「では水橋先生、ありがとうございました」
「いーえ、お大事にー」
丁寧に礼をする母親にゆるく微笑むのが、去年この町に来た若い先生だ。若いとは言っても大学を出ているのだから、当然年上。女性でもあまり見ないくらいの長髪を括っているが、艶やかで清潔感がある。むしろその髪型が、本人の柔らかで中性的な雰囲気を手伝っているようにも見えた。
「しずかせんせー、さようなら!」
「さようならー」
水橋先生は幼い兄妹の挨拶にも穏やかな表情で返しながら、彼女らを見送る。玄関の開き戸が閉まると、子供特有の賑やかさが遠のいていく。静けさが診療所を覆った。
「石月さん、お待たせ」
先生はしゃがんでいた私に視線を移す。片手に持ったままの一輪にも目を留めたので「大丈夫ですか」と聞けば、「すぐ終わるから平気平気。……では、次の方どうぞー」と砕けた調子に近い柔らかさで、私を診察室へと誘った。




