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【3】洋に花やぐ(3)

 集落に入り、夕日で赤く染まった我が家の戸を開ける。土間と板間からなる簡素な一戸建ての真ん中では、母が囲炉裏(いろり)で夕飯の支度をしていた。根菜の煮えたいい匂いが優しく、空いたお腹を揺り動かす。


「おかえり」

「ただいまー母さん!」


 葉太は手に提げていた学帽を戸口脇の壁に掛けると、草履を脱いでバタバタと板間に上がる。着物と同様にくすんだ髪の下から、温かい母の笑顔がこちらを覗く。火にあたっていたからか、母は色味がいい顔で竜にも声をかけた。


「竜治さん、今晩は食べていかれたらどうかしら」

「うーん……では、お邪魔でなければ甘えちゃいます。お母様のつくる夕飯は絶品ですので」


 一瞬だけ考える顔をし、竜はへらっと笑う。これまで何度も繰り返したやり取りだから、互いに気を遣っているわけではないと分かる。竜が律儀に頭を下げて家の中に足を入れると、母はもう一人の家族を見るような目で彼を優しく迎え入れた。



 しばらくすると父が帰ってきた。上機嫌の父が抱えていたのは、やはり卵持ちの(いわし)と干物がいくつか、それと酒の一升瓶。今日はよほどいい漁だったようで、囲炉裏を囲んだ夕飯が始まってからも饒舌だった。


「竜治くんも一つ、どうだ」


 竜に出会った初めは『さん』付け、敬語だった父も今ではすっかり砕けた言葉を遣う。彼が家柄で見られるのを好ましく思っていないと察してから、『鈴生様家の竜治さん』は、うちでは『娘たちに良くしてくれる竜治くん』になった。とはいえ、いくら距離が縮んだとしてもこれは別問題だ。口に小さくひびが入った徳利(とっくり)を持ち上げた父に、私は目を尖らせる。


「父さん、竜は十八だぞ」

「ああ、そうか。でも――」


 ちょっとくらい、と言いたげに私の隣に座る竜を見た父に、竜は軽い調子で、それでも申し訳なさそうに口を開いた。


「沙耶子さんがそう言いますので」


 そうして彼が笑えば、父もどこか嬉しそうに愛好を崩した。長年潮風にさらされてできたシワがさらに深くなる。明かりは囲炉裏で燃える炎のみで、薪がパチパチと控え目に音を鳴らす。冬より暖かくなったとはいえ、夜はまだ冷え込む。橙の火と夕飯に身体を温めながら、五人の時間は和やかに続いた。


御馳走様(ごちそうさま)でした」


 継ぎ接ぎだらけのボロの着物を二重に着こんだ両親に、フロックコート姿の竜は正座に直り、手を合わせた。


 家の外まで私と葉太が見送りに出る。外はすっかり暗くなっていた。他の民家から漏れた明かりがポツポツと、町道までの道筋を頼りなく教えている。


「帰り、大丈夫か」


 竜の家がある町の中心部まで、早歩きでも二十分はかかる。大漁で家族全員の気持ちが浮ついていたせいか、随分と長居をさせてしまった。「途中まで送ろうか」と言えば、竜はとんでもないという顔で私を見た。


「いくらなんでもそれは。慣れた道ですし、最近はほら、物騒ですから」

「物騒……火事が続いているものな」


 ボヤも含めて一年に二、三件だったこの辺りの火の元事情は、ここ最近で少し変わっていた。遡ると前の月に全焼が一件、その前の月にも同じく一件。その前だと半年前、これも全焼だ。いずれも民家ではなく普段は使われないような物置小屋だったというが、だからこそ自然の火種は考えにくかった。


「それならなお心配なんだがな」

「沙耶子さんは女性でしょう。俺はこれでも男ですよ」

「気を付けて」


 心配し合うのは不毛ではないにしろ、余計な心配を生ませるのもよくないことだ。家の中が寒くないように戸は閉めている。暗がりの中、竜を気遣うように見上げれば、彼はふわりと頬を緩めた。


「大丈夫ですよ、また明日。葉太もまたな」


 温かさを含んだ声で竜は言うと、帰路につくのを惜しむかのようにゆっくりと背を向けて、歩いて行った。


「姉ちゃん」

「なんだ、葉太」


 竜の濃紺の後ろ姿が夜闇に溶けていく途中で、葉太が前を向いたまま呟いた。


「姉ちゃん今年で二十一だろ。竜治兄ちゃんと結婚しないの?」

「急に何を言い出すんだ」

「急じゃないよ。いつも言ってる。姉ちゃんが結婚しないのは俺がまだ小学生だからだろ。卒業したら俺が働き手になれるから。そしたら結婚しなよ」


 「あのな」と言って、息を吐く。この場合、竜が仕事をしていないのは問題じゃない。むしろ仕事をする必要がないくらい、実家が裕福なのだ。普通は高価で手の届かない洋装で出歩けるのが何よりの証拠。それだけ潤沢な金をもつ大店の息子がこのような、野良仕事で精一杯の娘を娶るなど聞いたことがない。


「釣り合わないんだよ、私と竜じゃ。葉太だって分かるだろう」

「分からない。恋愛結婚というものもあるって、聞いたことがある。……あっ、これは竜治兄ちゃんからじゃないよ。……兄ちゃんは、そういう話をするとはぐらかす」


 慌てたように付け足した葉太の言葉は、最後にいくにつれ小さくなっていった。


「ほらみろ。あいつだって分かってる。父さんや母さんも分かってる。……葉太の気持ちは嬉しいけどな」


 逆にこちらが慰めるように言えば、葉太は目線を落として、面白くなさそうに口をすぼめた。そんな顔をされても仕方がない。無理なものは無理だ。恋愛結婚など夢物語か、例えあったとしても都会に住む大勢のうちのほんの一握りの話。


 うちの一番近所に住んでいた私より二つ下の子は、十七のときに同じ集落の漁師の息子と一緒になった。家柄も同じほどの両家が(・・・)決めた結婚で、みな祝福した。それが当たり前で、だが幸せなことなのだ。


 私が結婚しないのは葉太の言った通り、葉太がまだ小学校に通っていて働けないからだ。私が嫁いだら家が立ち行かないから、十六の前後に頂いた縁談はその理由でお断りした。十七のときに竜と知り合ってからは周囲が遠慮してなのかそういった話はこなくなったが、いつまでもこのままではいられない。


 葉太が働き出したら両親がどこかで縁談を探して、私にもってくるだろう。そこに竜は関係ない。両親も私もそれが分かっていて割り切っているから、今のひと時が特別で、楽しいのだ。


「もう家に入ろう。凧揚げの約束をしておいて風邪を引いたら、世話ないぞ」

「……うん」


 竜の姿は随分と前に見えなくなっていて、明かりの灯る民家以外は暗い田畑が広がるだけだった。すっかり肩を落とした葉太に申し訳ないと思いながら、その小さな背中を押す。知ってはいるのだ。竜を慕っているのも、本当は中学校に行きたいくらい、勉強が好きなのも。


 開けた戸口の中に弟を押し込めてから、一度外を振り返る。竜が帰っていった方角の空が、心なしか明るいような気がした。

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