【20】触れず愛でませ(1)
どのくらいの歳月をここで生きたのか。太く逞しく、それでも優美に成長した黒茶色の幹。その中の、大きく出張る節の一つに手をかける。勢いを付けて身体を持ち上げれば、夜に浮かんだ白い花弁が頬を撫でる。自分を包む芳しさが一層濃くなり、くすぐったさにほんの少し、顔を背ける。
前に来たときの魚の匂いは今はない。夜中のため、母屋の開き戸はピタリと閉まっているのだ。月の光が明るく、中庭の地面に映るのは大きな白梅の枝々と、その中を潜り登る一人の影。ゆっくりだが確実に枝先へと進む紺色のそれは、私のものだ。
見つかったら警察行きにならないか、と考えながらまた半身分、木を登る。まぁ、竜の部屋に忍び込む、その背中を押してくれたのは他ならぬ巡査だし、怒られるくらいで済むといいな、などと気楽に――どこか自棄にもなりつつ。
晴一にけしかれられて、というのは少し語弊があるが、二人きりで会えるいい方法がこれしか浮かばなかったのだから仕方ない。お兄さんがああやってうちに来た以上、竜本人はもう会いに来てくれないような、そんな気がしたのだ。
一日と少し顔を見ていないだけで、心が落ち着かない。それは竜がこれまで毎日欠かさず私に会いに来ていたのと、間違いなく、こんな状況だからだ。関係が途切れそうでなければ、誰がこんな夜這いの真似事なんてするか、と思う。
白梅の天辺近くまで上がれば、一階の屋根に上半身が乗っかりそうな気がした。身を乗り出して瓦の屋根にうつ伏せになり、脚も移動させる。普段と同じ着物だが、登り始めてすぐから見られないほどに着崩れている。だが身なりを気にして落ちてしまっては、それこそ目も当てられない。お邪魔してからだな、と身体をゆっくり起こして、窓の外にしゃがむ。
コン、コン。あくまで小さく、ガラスを叩く。窓枠が揺れ不自然な音が鳴ると、かなりの間が開いてから――中の錠が外れる音がした。続けて、ゆっくりと窓が開けられる。すりガラスの先で暗くぼやけていた人影と対面すれば、相手は心底驚いたように目を見開いた。
「さ、沙耶子さん……?」
「よう、竜。邪魔していいか」
「……あ……はい」
ポカンとした面持ちで頷く竜を追いやってから、背を向けて窓枠に座る。そこで草鞋を脱ぎ、よっと身体を反転させて、竜の部屋に降り立った。立派な部屋だ。八畳間の畳部屋。壁際の書机には冷めた携帯ランプと数冊の書物が置かれ、隣の書棚にも本が詰まっている。部屋の真ん中の布団が柔らかそうに横たわる。その上にくしゃりと縮んだ、ほのかに熱を持っていそうな毛布を見て、口を開く。
「寝ているところ悪いな」
「いえ。……ああ、夢かと思いました」
畳に腰をつけた竜がうつろに呟く。やはり寝起きらしく、口調はおぼつかない。この間も見たとはいえ、洋装でない姿は慣れないな、と彼を見る。衣の裾からすらりと伸びる脚に、くつろげた襟から覗く鎖骨。月明かりに淡く照らし出されたそれらは、どちらも日焼けを知らない色だ。
「着物を直すから、あっち向いててくれ」
「あ……はい」
竜の格好に自分の着崩れを思い出し、互いに背を向けて衣を整える。簡単に直してからまた振り返れば、竜はこちらをじっと見上げていた。
「あっち向いてろって言っただろ!」
「なんだか気になっちゃって。すみません」
へらっと嬉しそうに笑う竜だが、どこか影が差している。それでも笑ってくれることにいくらか安心して、「まぁいい」と畳に座る。竜の正面だ。私が見つめれば、相手は若干気まずそうに視線を漂わせた。
「今日、竜のお兄さんが会いに来たんだ。……帝都に、仕事に出してもらえることになったんだよな。おめでとう」
「沙耶子さんのおかげです。ありがとうございました」
目を伏せ、頭を下げられる。礼などいらないが、過去形か、と思わず息を吐きそうになった。こんなに改まった態度で言われるのは少し辛い。それでも、挨拶の日に取り残された竜よりはずっとましか、とも思う。
「私は何もしてないよ。竜の夢が叶うのは嬉しい……けど、できれば竜の口から直接聞きたかったな」
「怒らせちゃいました?」
「怒ってなんかない。そうじゃなくて……なんだ、その……寂しいだろ」
そう言って、畳に手をつき、前かがみになる。少し距離が近付くと、竜の目が一瞬揺らぐ。それでも、身体は引かないでくれた。品のある整った目鼻立ち。澄んだ瞳の、その艶々しい黒が、私だけを映している。
「何も言わずに。離れていこうとするなよ」
伝えたいことがある。そう思って言葉を紡げば、声が震えているのが分かった。竜相手に緊張するなんて、柄にもないのに。戸惑ったように瞬きだけを繰り返す竜に、私は心を決めて、思いの丈を打ち明けた。
「好きだよ、竜。これからも一緒にいたい。……それとも、一度逃げてしまった私では、許してもらえないだろうか」
「逃げ……? いや、俺はてっきり、嫌われたと……もう結婚なんて考えてもくれないだろうと思って……だから、あの日で最後にしようと」
「考えたよ。考えて、決めたんだ」
一度竜を突き放した私を、必死になって助けに来てくれた。いささか甘いところはあっても、どこまでも心根が優しいのだ。一緒に生きていきたいと、切に思う。
「帝都だってどこだっていいから。私を連れて行ってくれ。結婚しよう、竜」
心を穏やかにして言うと、私を映す双眸が大きく見開かれた。片方の手指は口元に添えられ、薄い唇が小さく震える。
「う……あっ……でも、俺。沙耶子さんに、まだ、触れられない」
「いいよ。全部引っくるめて好きなんだ」
頑張れなんて言わない。『まだ』と、竜はそう言葉を紡いだ。きっと私と出会ったときから、ずっと頑張っているのだ。このままでも充分幸せだと、その気持ちで竜を見つめると、彼は切なそうに眉根を寄せた。すんと、小さく鼻がすすられる。
「俺も、俺も沙耶子さんのことが、好きです。本当は一緒にいたい」
「じゃあ、そうしよう。……お兄さんの方は、なんとか説得してだな」
「堅物ですもんね」
口元は笑っているが、涙ぐんでいるのか声は湿っぽい。月明かりの中濡れる瞳は、どこまでも純で、綺麗だ。
そうだ、と自分の袖の中に手を入れる。ここに来る間に考えたのだ。触れられなくても、言葉以外に竜と交わせるものがないかと。探す前に、ちょうど記憶に新しいものが手元にあった。
「竜、二人あやとりはできるか」
「ええ。昔、晴一と遊んでましたよ」
男児二人して慎ましいな、とその光景を想像しながら紐を取り出す。細く長く紡がれたあやとり紐。自分の手にかければ、十つの指によって青紫色の綾が出来上がる。
「ちょうどもらったんだ。……どうかな」
反応を窺うようにちら、と上目を使うと。私を見下ろす竜の喉が、何かを欲するように、わずかに上下した。




