【2】洋に花やぐ(2)
昼食の後は草わらに腰をつけたまま、穏やかな潮風を浴びていた。遠く波打ち際を眺めていると、ここまで聞こえるはずのない波のさざめきが脳内を流れ出す。打ち寄せては消える白波の帯に柔らかく捉えられ、自然と眠くなる。
そのまま寝てしまったらしい。まどろみの中で頭が大きく竜の方へ傾くと、コツン、とこめかみの上に硬いものがあたった。
「沙耶子さん。結構いい時間ですよ」
ふっと気付いて隣を見れば、私から身体を一つ分引いた彼が文庫本を一冊持ち上げていた。どうやら頭に当たったのは本の背表紙らしい。当たった場所をさすりながら、次第に意識を醒ましていく。
「ああ、悪い。すっかり眠っていた」
「眠る沙耶子さんもお美しいですけどね」
「お前は本当に……」
平然とそういう言葉が出るのが不思議で仕方がない。つくづく軽い口だ、と呆れて息を吐いたが、竜は意も介さない様子で、海の方を見ながらニッと笑った。
「ほら見て下さい。今日は大漁ですよ」
つられるようにそちらへと目を動かせば、六隻の漁船が群をなして東の港へと向かっていた。帰港する彼らが掲げるのは大漁旗。今日の漁はよほど調子が良かったようだ。今の時期だから、卵を抱いた鰯だろうか。鰆も掛かっているとなお嬉しい。周囲には漁の成功を共に祝うように、おこぼれを期待したカモメが飛び回っていた。
「今晩、沙耶子さんの家はご馳走ですね」
あの船のどれか一隻には父が乗っている。船持ちの漁師などではない。雇われることで船に乗っけてもらっているしがない一船員が、私の父。その父が乗る船の旗はたしか黄色の背景に赤の鯛が描かれたものだったから……、私は目を凝らして風になびく旗らを見やると、あれか、と目星を付けた。
「竜の家も豪華にならないのか」
「うちはまあ、多少は譲ってもらえるかもしれませんけど」
竜の家は漁師ではなく、海鮮物――専ら鮭の加工・販売を行う商家だ。それもただの商家ではない。港町の一等区に立派な店構えをもつ『鈴生屋』といえば地元では知らぬ者はいない、老舗の名店。持ちつ持たれつとはいえ漁師から買い取る立場なのだから影響力は強く、率直に言ってしまえば裕福な家だ。
そこの先代の次男が竜――鈴生竜治で、今私の横で洋装をまとい、春の陽気のような笑みを湛えた男なのだった。
うたた寝から目覚めた後は畑に戻り、仕事を再開した。クワを使って地面の深いところから土を掘り起こし、畝を作っていく。高い日に当たり汗をかく私の傍らで、竜は白い花がほころぶ梅の下でのんびりと読書をしていた。
夕刻になり日が海へと向かう頃、いつものように「家までご一緒します」と言った彼と共に帰路に着く。沈む夕日とは反対の方角に農道を進むと、地面から少しくぼむ形で小さなトンネルがある。交差するようにトンネルの上を通るのは鉄道だ。港近く、この町の中心部にある駅舎から一つ隣の県庁所在地まで繋がっている。トンネルに入る前に遠く横たわる線路を見れば、砂利の上に敷かれた赤茶色の金属が夕日を反射し、ぼんやりと光の道を浮かび上がらせていた。
「姉ちゃん、竜治兄ちゃん」
トンネルをくぐると線路に沿って走る町道に出る。そこでばったり、学校帰りの弟に会った。
「おう。葉太」
「おかえり。友達と遊んできたのか」
「うん。でも宿題も済ませてきた」
葉太は竜の隣に並ぶと、へへ、と笑う。私に似た切れ長の瞳が自慢げにこちらを見上げてくる。
弟は賢い。学校の先生が家を訪ねたとき、クラスで一、二番の成績だと言っていた。このくらい頭が良ければ、中学校への進学を勧めたい、とも。だが当然のことながら、進学には学費が必要だ。中学校教育は五年間。その間、高い学費を払いながら一家で生活していく余裕はうちにはない――というより、この辺りに住むほとんどの家では難しいのではないだろうか。
「勉強できるうちは勉強してさ。来年卒業したら、家の仕事を手伝うか、親父と一緒に海に出させてもらうよ」
心の内を読まれたのか、私より九つ年が離れた葉太は柔らかい口調で続ける。
「中学校出ても、家のためにならないとな」
「それ、俺に言ってるなら耳が痛いんだけど」
葉太の言葉に竜が苦笑する。竜は昨年に中学校を出ていながら仕事をしていないわけだから、まさに耳をつつかれる思いだろう。
「竜治兄ちゃんは別だよ。俺、尊敬してるよ」
「どこを?」
面白がるように竜が聞くと、葉太もまたニヤリとする。
「この姉さんにべったりくっ付けるところ。あと、色々譲ってくれるところ」
「現金なやつだな。でも前の方は、正解だ!」
竜がその白い手で、葉太の頭をわしわしとかき回す。竜より頭二つ分は背が低い葉太の髪が乱れ、「ははは!」と子供らしい笑い声が夕焼け空に響いた。嬉しさの色を残したまま葉太は話す。
「今度、友達と凧揚げするんだ。竜治兄ちゃんの鳥凧、揚げたいんだけど」
「もうお前のものなんだから、好きに使えよ」
「コツ、教えて」
二人はすこぶる仲が良い。十二歳で小学校を出て以来ずっと家の仕事をしている私が、三年前、当時中学生だった竜と出会ってからの付き合いだ。私の元に足繁く通う竜は両親や葉太にも親しげだから、葉太が懐くのも分かる。勉強ができるのも竜の影響なのかもしれない。
「今度の学校休みにでも、浜に行ってきたらどうだ」
「沙耶子さんもどうです?」
「家の仕事次第だな」
「頑張るよ」と付け足して二人に笑いかければ、竜たちは「応援しような」「うん」と頷き合っていた。