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【1】洋に花やぐ(1)

 はぁ、と吐いた息は透明で、立ち込めた土の匂いに溶けていった。


 種まきのために地中深くから掘り返した土は重く水を含み、地表よりもずっと濃い色が(うね)を作っている。本格的に暖かくなる前にこうやって土壌を整えなければ、まいた生命(いのち)は芽吹かない。楽ではないが、憂いなく次の季節を迎えるためには必要なことだ。


 家から離れた海寄りの、さほど大きくない畑の世話が私に割り当てられた仕事。この時間、父は海へ乗り出していて、母は家で炊事か家近くの野良仕事。今年で十二になる弟は尋常小学校へ行っている。


 そろそろ昼休憩にでも入りたいと畑近くに植わった梅の木に目をやると、艶やかに成長した幹に腕を寄りかからせて、いつもの青年――竜治(りゅうじ)が立っていた。


沙耶子(さやこ)さーん」


 溜息が出るくらい緊張が抜けた、甘えるような声。私は首に巻いた手拭いで額の汗を軽くぬぐうと、ひらひらと手を振る彼に応える。


(りゅう)


 相変わらずいい頃合いに来るものだ。いつものように返せば、竜はへらっと表情を崩した。黙っていれば整った顔立ちに違いないのに、彼は春の陽気に浮かれたような、とろけた笑みをつくる。二つで違うのは、春の陽気はいずれ鋭い日差しに変わるが、彼の表情だけはそのままだということか。要は年中春爛漫なのだ、彼の頭は。


「それそろお昼休憩かと思いまして」


 そう言いながら竜は片手に合わせ持った二つの包みを軽く持ち上げる。濃紺と薄黄のそれらは、竜と私のもの。木の根元に置いていた私の分も、いつの間にか拾い上げていたらしい。


「ああ。そうしようかと思ったところだ」


 固く一つに結んでいた髪を解く。肩にかかるほどの黒髪は落ちると同時に、潮の混じった風にふわりと浮いた。畑から出て、手にしていたクワを木の幹に立てかける。そのまま(たすき)も解いて大ぶりの枝に軽く結び付けると、農作業用の着古した着物を整えた。首にかけた手拭いはそのままでいいか、と顔を上げると、そこで竜は労わるように口を開いた。


「いつものところでいいですか」

「そうだな。今日は暖かいから風も気持ちいいだろう」


 私がそう言うと、彼は幹から身体を離す。その細身の肢体を包むのは、帝都では多いという彼曰くフロックコート。堅苦しくないよう髪型は適度に崩しているものの、その格好――そもそも洋装なんてものは、この片田舎ではまず見ない。それを何を言うことなく着て毎日出歩く竜は、この町では浮いた出で立ちといえた。


 姿勢の良い彼は背筋を伸ばしたまま、畑の脇を通って風の吹く元へと進んでいく。その光沢ある濃紺に薄く移った白梅の芳香を追うように、私は彼の後を付いていった。




 畑から歩いて五分足らずで海が見える。緩い丘を登った先では松林が海岸線を縁取り、その向こうには貝殻や小石の混じる砂浜が横に横にと広がっている。さらにその先が、深い色合いの海。


 いい塩梅(あんばい)の草わらに竜と並んで座る。私が脚をくつろげると同時に、隣からカフスボタンの付いた腕が伸びてくる。彼は薄黄の弁当包みをそっと私の太腿にのせると、流れるように腕を引き、自分の弁当を広げ始める。普段と変わらない昼食が始まった。



「ああ、美味しい。沙耶子さんの愛を感じる」


 白むすびに片手で食い付くと、竜は嬉しそうに目を細める。


「お前のために握ったことなど一度もないがな」

「でも、二人分なんですよね」

「いいから黙って食べろ」


 口をすぼめて視線を逸らすと、ふ、と柔らかく息を漏らす音が耳を掠めた。


「はい、じゃあ俺からも」


 そう言って竜は自分の杉製の弁当箱から焼き鮭を一切れ取り出し、私の弁当箱の蓋にのせる。彼のわっぱ(・・・)に入っていたのは焼き鮭がふた切れのみ。私が竜の分も白むすびを作ってきているだろうという考えが明け透けだ。


 竜の家では彼の分の弁当は作らないらしい――というより、中学校を出てからというもの、仕事をするでもなく毎日ふらつく彼には作る気がないらしい。だから二人の昼食といえば、私が握ってくる白むすびとその日の漬け物、そして竜が自分で持ってくる焼き鮭、といった組み合わせが常だった。


「いつも嬉しいが、くすねてるんじゃないだろうな」

「なんて人聞きの悪い。うちには余るほどありますから。家の台所でたくさん焼けているのを、少々拝借しているだけです」

「店じゃなくても、家からはくすねてるんじゃないか」


 呆れるように眉尻を下げると、竜は「まあまあ」、と笑いながら鮭をつつく。竜の所作は丁寧で、箸の扱いは私の知る誰よりも器用だ。加えて彼の手は傷一つ見当たらない。汚れに触ったことがないように艶やかで、見栄え良く、動作も美しい。


「――悪いな」


 脂が美味しそうに焼けた大きな切り身に自分の箸を伸ばす。色味のいい紅鮭の身をほぐす自分の手は水仕事で擦り切れていて、おまけに爪の隙間には取り切れない土がわずかに残っている。悪いな、と思う。


「いえいえ。俺は沙耶子さんと一緒にいたいだけですから」

「……鮭、美味しいな」

「そりゃあ、これで生計立ててますし?」

「誇らしげに言うなよ。手伝わないで毎日ふらふらしてるくせに」

「ああ、愛しの沙耶子さんに言われるとキツイなあ」


 そうは言いながら目も口も笑っている。米粒の付いた親指をペロリと舐めると、竜は楽しそうに私の顔を見る。身綺麗を過ぎた竜。まだこの辺りでは珍しい洋装がさまになるのは、間違いなく彼の育ちが良いからだ。絶えず少年のように笑ってはいるが、ふとした瞬間の表情に、品の良さが滲み出る。


 はっとさせられる。

 出会ってから三年、毎日のように会いに来る彼の目には私の何が映っているのだろう。自分は来季の食い扶持を守るだけの、泥の付いた田舎娘だ。


 私の目に映る彼の姿は現実味がないほど綺麗で、私とは違う世界の光で煌めいている。その自身がもつ眩さのせいで、彼の目に現実の私は見えていないのではないか。そう、たまに心配になるのだった。

【補足】

物語の時代設定より、小学校は六年間、中学校は五年間になります。

竜治は十七歳で卒業している計算です。

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