第2話
ぼんやりと物思いに耽っていたら、腕に何かが当たる感触で我に帰った。ルトがぽんぽんとあたしの腕を叩いていた。
「ミヨ?どうした、随分と上の空だったみたいだが」
疲れたのか、と無機質なボタンの目であたしを見上げてくる。
緩く首を振って「何でもない」と笑いかけた。
「ルト、ロイ先生のところ行こ」
脇に手をさし入れてルトのことを持ち上げる……心なしか、若干ルトが重いような。
そのまま定位置の右肩のところにルトを乗せた。うん、やっぱり重みが増してる気がするな。
ようやくいつもの重量感を肩に感じて内心安堵していたら、いきなり頬をぺしんと叩かれた。
右肩に乗っているルトが、そのボロボロの体から滲み出る不機嫌そうなオーラを隠そうともせず、あたしのことをジトリと睨んでいた……ツギハギとボタンの目だから分からないけど、雰囲気が睨んでいた。
「お前、今若干重いとか思ってただろ」
「え?別に」
「嘘つけ。顔に出てるぞ」
あれー、おかしいな。顔に出してるつもりはなかったんだけど。
少し吹き出しそうになるのを堪えつつしらを切っていると、ルトはプイッとそっぽを向いてしまった。その仕草であたしがついに吹き出してしまったら、余計に機嫌を損ねてしまったらしい。
博識のくせにこういうところは何でか子どもっぽいよなぁ、ルトって。
ちょっと微笑ましく思いながらも、その重そうな頭をポンポンと撫でてあげた。
「ごめんって」
「…ぬいぐるみが重くなるわけねーだろ」
「はいはい。洗濯したら汚れとか落ちてスッキリ軽くなるかもな」
「洗濯は嫌だ。水魔法でもみくちゃにされるし、乾くのにえらく時間が掛かるし、全身湿って重くて気持ち悪ぃ」
「汚れてるよりはいいでしょ」
「いや洗濯される俺の身にもなれ!」とペチペチ抗議をされても、残念ながら威力は低いしむしろ可愛さだけが勝ってるっていうのは、自分の中だけに留めておいた。
ルトをからかいつつ、お互いに他愛もない話をしながら医務室の方へと足を運んでいった。
さっきとは違って、息苦しさも、あたしに向けられる視線も気にならなかった。
ルトがいてくれれば、どんな冷たい空間にいようがあたしは独りじゃないから。その安心感が何とも心地よかった。
あたしにからかわれたりして呆れていたルトは、時折あたしの顔をじっと見て、複雑に思いを巡らせていたというのに、あたしはそのぬいぐるみの表情からは気付くことはなかった。
***
『エルミア教団』
遥か昔、この世界で最初に自らを「悪魔払い」と名乗った奇才の魔術師、"エルミア"によって創設された、魔払いの組織。
世界各地の魔物――時には、悪魔による災害から人々を守り、その元凶である「魔」を払うことがここに属する人間の使命とされる。
「教団」と付いているのは、創設当初に各地の教会などが併合されて、後に創設者エルミアを教祖とし聖人として崇めたことから、宗教団体のような活動をし始めたのがきっかけだとか何とか。
あたしは、教団に籍を置く者の一人として、幼い頃からこの組織に所属している。
「医務班・総合治療棟」とプレートに刻まれたアーチ状の入り口をくぐり、そこから先に同じように並んでいる検査室の入り口をいくつか通り過ぎていく。
治療棟の部屋の入り口にはドアはなくて、アーチ状の入り口に暖簾のように布が下がっている程度だ。通り過ぎていく途中、中でちょうど治療を受けているような話し声が聞こえてくる部屋もあった。
任務を終えた団員は、必ずここに来て怪我の差はあれ治療を受けるのが決まりみたいなものだ。
……怪我だけじゃなく、カウンセリングも。
常に危険と隣り合わせでいつ死ぬか分からないような状況に置かれているやつがほとんどなんだから、しょうがないと言えばしょうがないんだろう。
以前、あたしの上司にあたるやつは「気が狂って暴れられたりしても面倒だし、使い物にならなくなるのが一番困る」と言い放っていた。
……つくづく、ここの組織はイカれてると思う。
見慣れた治療棟の広い通路を歩き、深い青色の布が下がっている検査室の前まで来て足を止めた。入り口の両脇に観葉植物みたいなのが置いてあるのは、部屋にいる人の趣味なんだろう。
横の壁に嵌め込まれたプレートには、「医務班長検査室」と立派に刻まれていた。
少し息を整えてから、布の向こう側に「ロイ先生」と声を掛けると、遅れて「はい、どうぞ」と柔和な声で返された。
知らず知らずのうちに溜め息がこぼれる。いくら中にいる人が昔からの馴染みと言っても、検査室に入るのはいつまで経っても慣れない。
と、ポンポンと軽く綿の詰まったボロボロの腕に叩かれた。それだけで途端に気持ちが幾分か軽くなるんだから、自分でも単純だと思う。
ちょっとだけ自分の口元が緩くなったのを感じつつ、布を押し退けて検査室へと入った。
薬品の独特の臭いと、花のようなふんわりと甘い匂いがかすかに漂ってくる。
室内は壁際に薬品棚、本棚、あとは素人目では何か判別しにくいようなものが置かれた棚が整然と並んでいる。
入ってすぐ目の前には使い古したような机に、その周辺には薬草か何かの植物の鉢などが置かれていた。
「お帰りなさい、ミヨちゃん。任務お疲れさま」
その机のところに座ってあたしを待ち構えていたこの部屋の主、ロイ先生は柔和に微笑んであたしを出迎えてくれた。
その傍らには全身からほのかに光を放ち、机の縁に腰掛けてニコニコと微笑む、明らかに小さすぎる人型が同じようにあたしを見つめていた。
これまで何度も顔を会わせたことがある。ロイ先生の使い魔である花の精霊だ。仄かに香る甘い匂いはおそらく、あの精霊から発せられているものだろう。
柔和に微笑んでいたロイ先生だけど、あたしがその近くまで行った途端に困ったように眉尻を下げた。
「ミヨちゃん、任務から帰ってきたらすぐに検査室へと来るようにと、何度も言っているじゃないですか」
「ごめん。ちょっと部屋に寄ってた」
「もう、君の検査は何よりも最優先しなければならないと私は常日頃から口を酸っぱくしているでしょう?それにミヨちゃん、最近ちゃんと寝ていませんね?目付きと肌の調子が芳しくない。聞くところご飯もしっかりと摂っていないようだし……任務で不規則な生活になってしまうのは私も百も承知ですが、せめてご飯くらいはしっかりと食べて」
「………ロイ先生、説教するくらいならあたし部屋に戻りたいんだけど」
言いながら踵を返そうとするあたしの目の前……というか足元に、いつの間にか花の精霊が立ち塞がって通せんぼうをしていた。
さっきと変わらずニコニコと笑っているんだけど、その足元辺りから生えている植物の蔓は何なんだろうか。あたしの足首に絡まってるんですが。
ぺっぺっと足に絡んだ蔓を取ろうとしたら、その手に精霊がひしっと抱き付いてくる。遊んでほしいらしい。
いや、遊んでほしいってせがまれても困る……そして蔓が腕にまで絡みついてきて本格的に動けなくなりそうになってるんだけど!?
あと、何だか目がキラキラしているような気もする。お前昔からそうだけど、ほんとに人懐っこいな!
「こらこら、リージェ。いたずらはいけません」
離してくれとブンブン腕を振って、引っ付く精霊と格闘していたら、呆れたようにロイ先生が自身の使い魔を諫めてくれた。さすがに主に言われては従うしかないようで、渋々とあたしに絡み付かせてた蔓をといた。
不貞腐れたようにプウッと頬を膨らませて、気付けばまたロイ先生の傍らに腰掛けていた。
むくれてしまった自分の使い魔にやれやれ…と首を振るロイ先生は、再びあたしの方へと視線を向けた。
「私の使い魔が申し訳ないね。いつまで経っても甘えん坊のままなんだから……さて、まぁ君への小言は言い足りないところではあるけど、検査を始めましょうか」
……出来れば小言は無しにして検査だけをしてもらいたいんだけどな……
柔和なロイ先生の微笑に内心げんなりしつつも、「どうぞ」と勧められた患者用の丸椅子に腰掛けた。
「それでは、目の検診を始めますね。眼鏡は外してください」
言われた通りに眼鏡を外して、肩から膝の上に移動させたルトに持ってもらう。
…そう言えば。
「ロイ先生、いつもいる助手の人はどうしたの」
「ああ、彼らは……」
ふとあたしが思ったことを訊いてみると、ロイ先生は少し困ったように笑って、一瞬だけ視線を泳がせた。
……付き合いが長いから分かる。たぶん、あたしに関してだ。
…訊かない方が良かったかな。
一瞬躊躇ったロイ先生だけど、諦めたのか小さく息を吐き出していた。
「…連日遅くまで働き詰めで申し訳なかったので、今夜は早めに仕事を切り上げてもらったんですよ」
だからここにいるのは私だけです、何も心配しなくていいんですよ、と子どもをあやすように、それ以上の追及はしないでくれと暗に含んだ微笑で返された。
…追及も何も、大体の察しはついてるからするつもりもないんだけどさ。
これ以上訊くのはあたしに………いや、「助手の人」にも気を遣っているロイ先生に失礼だ。
納得した風を装い、「さっさと検査をしてくれ」と目で訴えるあたしに、ロイ先生は呆れてはいたけど心なしかほっとしていたようだった。
「では、まずは封印の具合から確認します。目を閉じて気を楽にしてください」
言われた通りに目を閉じると、その上からロイ先生の手があたしの両目を隠すように当てられた。
ロイ先生が何かを唱えると同時に、瞼の下、皮膚の内側を何かが巡るような感覚が走る。
いつまで経っても、この探られるような感覚の気持ち悪さには慣れない。
気持ち悪さに内心顔をしかめつつ、一方であたしの"視界"ではロイ先生がもう片手でカルテに何かを書き込んでいるのが見えた。
「ふむ……長時間の使い魔召喚に、使い魔の戦闘使用…召喚していたのは誰ですか?」
「ケルベロスを一体、討伐補助に力を貸してもらった」
「分かりました。この程度であれば軽く掛け直すくらいで大丈夫でしょう」
ロイ先生がまた何かを唱える。今度のはさっきとはリズムも唱えている言葉も少し異なっている。
と、瞼の下……自分の眼球を何かに撫で付けられたような違和感。
思わずビクリと肩を震わせてしまったら、"視界"の中でロイ先生が申し訳なさそうに微笑んでいた。
「まだ慣れませんか?」
「……ロイ先生も一回自分の眼球を直に触ってもらったら分かると思うよ」
「あはは…良い感覚とは言えませんね」
患者さんの苦痛を理解しないようでは、私も医者としてまだまだですね。
…どこか、悲しそうな口調でポツリとこぼした先生の言葉に、開きかけた口を閉じた。
撫で付けられたように感じたところから、眼球全体に薄い膜が広がって覆われる感覚へと変化していく。
その変化が終わると同時に、ロイ先生から浅く息が吐き出された。