第9話
男が突然……いや、予想通りと言えばそうなんだけど、テオドールの胸ぐらに掴みかかった。周囲から息を飲むような気配が伝わってきた。
男はそこまでガタイが良いというわけじゃないけど、明らかにテオドールの方が細身で二人の腕力の差は歴然のように思えた。それでも、細身の男の背中に焦りはなく……さっきと変わらない、真水のような冷たさが滲んでいるだけだった。
「そうか、そこまでして庇うってことは、お前もあのガキと同じような化け物ってことなんだな」
「何を、」
「じゃあ懇切丁寧に、その体に思い知らせてやる。化け物は人間様に迷惑かけないよう、大人しくすっこんでろってな──!」
大きく拳が振りかぶられる。殴られる、と思うよりも早く、無意識に足が一、二歩と出かかっていた。
……団員たちの背後に、チャコールグレーの影が突然現れたのを見て、すぐにその足は止まったけど。
影から目にも止まらない速さで何かが伸び、鞭のしなるような鋭い音が鳴った。
そして、響き渡った三人分の驚愕の悲鳴。周囲からも似たような声が上がった。
突如現れた影は、人の形を成しているものではなかった。人の背丈よりもうんと低く、それでいて大きい。四足の獣だ。
猫と似たような顔立ちだけど、猫よりも顔が広く耳が丸い肉食獣の姿……炭のような灰色の毛並みを持つ、豹がいた。
もちろん、見た目は豹のような姿形をしていても、豹そのものではない。一番それが分かりやすいのが、口の横から伸びる、煙のように揺れる髭とおぼしき部分。
そして、長く長く伸びる──尻尾。その尻尾の先には、団員三人が雁字搦めに拘束されて、宙に浮いていた。
団員たちは何かを喚きながら足をばたつかせて必死にそれから逃れようとしている。しかし、大人三人が暴れていようがどこ吹く風、植物の蔓のように長い尻尾の拘束が緩むことはなかった。
突如現れたそのチャコールグレーの豹に、周囲は大きくどよめいた。もちろん、間近で対峙しているテオドールも……さっきはどれほど団員に罵られようとも平気な様子だったけど、その肉食獣の出現には動揺を隠せないでいるみたいだった。
あたしはじっとその豹を見つめて、そして、大きく息を吐き出した。
「……アイリス……」
あたしが呟いたのが聞こえたのかどうか分からないけど、豹は一瞬だけこちらに視線を向けてきた。ジトリとした、灰がかった青い瞳。豹の姿のためか、その視線はいつにも増して鋭い。首回りには、あの可愛らしい姿のときにまとっていた外套を羽織っていた。
……ケット・シーは、状況によってその姿を変えるらしい。普段生活をしているときには、あの二足の猫姿か普通の猫。戦闘などの緊急時には……豹の姿に変化して、妖精や自分たちのことを守るのだという。
豹のアイリスはあたしを見た途端に、ふてぶてしく鼻を鳴らした。……猫のときはまだ可愛らしさがあったもんだけど、あの姿じゃ腹立たしさしか出てこない。ほんの少しイラッときた。
『……団員同士の、許可された訓練以外での不当な暴力行為、並びに大食堂で大声をあげるなどの迷惑行為は禁止です。監視者として、該当団員三名には当分の大食堂への出入り禁止、主犯の者にはさらに自室での謹慎処分を命じます』
猫姿のときとは違って、流暢で丁寧な敬語口調だった。
男とも女とも取れないハスキーな声がそう告げると、どこからともなくあの黒ローブが姿を現した。アイリスの尻尾に拘束されている団員たちの腕を掴み、そのまま団員たちごとふっと姿を消した。
宙ぶらりんになったアイリスの尻尾は、しゅるしゅると短くなっていき、自然な長さへと戻った。戻ってもなお、その尾先は髭と同じく不安定に揺らめいている。
どよめく周囲をアイリスが一睨みすればすぐに騒ぎは収まり、豹と金髪の男を中心とした円は解消された。野次馬じみた団員たちが、半ばそそくさと逃げるように散っていったのは、気のせいじゃないだろう。
チャコールグレーの豹はふんと鼻を鳴らし、長い尻尾を揺らしながらテオドールの方へと近寄っていくのが見える。優男のその背中に、人ならざる者への恐れはなかったが、アイリスのことを警戒しているようにも思えた。
テオドールの側で立ち止まり、ジトッと視線だけで見上げる。
『新人さん、大層な正義感は認めましょう。しかし、それを考えなしに振り回すだけでは、ただの傍迷惑な戯れ言に過ぎませんね、この恥知らず』
冷たくそれだけ吐き捨て、その横を通り過ぎてあたしの方までの音もなく歩み寄ってくる。
無言でアイリスのことを見つめるあたしに、豹は『はぁ』とわざとらしく溜め息を吐いてみせた。下からジトリと見てくるその青い瞳は、あたしのことを責めていた。
『……まったく、お前は本当に面倒事しか起こさない』
「……あたしは、何も」
『ええ、何もしていません。黙って耐え、傍観していただけです。けれど、お前が原因の一つとして騒ぎが起き、大きくなったことは分かっているでしょう』
「それは…」
『収めようと思えば、お前ならいくらでも収められた。それを怠ったのはお前の責任です。何度も私の手を煩わせないでほしいものですね』
……まさに図星を突かれて、口をつぐむしかない。あたしが面倒になりたくないと部屋に戻ろうと考えていたことも見透かしているようだった。
押し黙ってしまったあたしをじっと見据えていたアイリスは、不意に鼻を鳴らした。つと鼻先を上げ、一瞬視線だけをテオドールの方へと向ける。
『……まぁ、あの新人さんには、一応感謝しておくことです。真っ向から堂々とお前のことを庇っていたのですから』
お前の意固地は心底ウザったいので、と一言余計に呟くと、チャコールグレーの毛並みが周囲の景色に溶け込むように薄れ、青い瞳の豹はそのまま消えた。
ぎゅうっと拳を握り締める。無言で立ち竦むあたしに、遠巻きにチラチラと視線が向けられているのは、何となく感じていた。
遠慮がちにぬいぐるみがあたしの名前を呼び、ツギハギの腕で肩を軽く叩いてくる。グッと顔を上げて、さっき歩みを止めた足を再び動かした。
たぶん、端から見ればあたしはかなり機嫌悪そうには見えていたと思う。アイリスから言葉を吐き捨てられて、いまだにその場に突っ立ったままでいる、金髪の男の側までブーツの音を響かせた。
「なぁ」
短く、低い声で、俯いている男に呼び掛ける。自分が思っていたよりもずっと低い声が出た。
乱暴とも言えるあたしの呼び掛けに、はっとしたように顔を上げて、こちらを振り返ってきた。アーモンドの赤紫の目は、その瞳の奥で暗い色をしていた……ように見えた。
「……ミヨさ、」
「あそこまで言ってくれたのは感謝する」
言葉を遮り、抑揚なく言葉をぶつける。今は、こいつの言葉は何も聞きたくない。
……何かが自分の中で、ほんの少し揺れているような気がしていたから。
一度、深く息を吐き出す。あたしより頭一つ高い位置であたしを見下ろすその瞳をきつく、睨み付けた。
「でも、あんたさ」
「……」
「余計なお世話って言葉、知らない?」
赤紫の目が見開かれ、何かを言おうと開きかけていた形の良い唇が固く引き結ばれた。
……その顔を、赤紫の目を真正面から見ることができず、顎を引いて思わず俯いてしまった。
「……あんたの正義感、あたしには迷惑でしかないから。任務以外ではもう二度とあたしに関わるな」
後半に行くにつれて口の中でぼそぼそと呟くような声になり、全てを言い切る前に、呆然と立ち尽くす金髪の男に背を向けた。
……逃げるように立ち去るあたし…途中、机に置いていた食べかけのトーストの乗ったトレーを取るのも忘れない…の背中に、あの揺るぎない意思の滲む赤紫の視線が突き刺さっているのを感じていた。
それでも、一度も振り返らずに、あたしは喧騒残る昼の大食堂を後にした。
***
自分の部屋まで戻り、少し乱暴にドアを開けて部屋に足を踏み入れ、すぐさま閉めた。後ろ手で鍵をかけると同時に、肩からルトが飛び降りる。
鍵をかけたばかりのドアに背を預けて、その場にずるずると座り込んだ。手には、大食堂のカウンターに頼んで包んでもらった朝食……時間帯としてはおかしいけど一応、朝食だ、それの残りを入れた紙袋を握っている。崩れてしまいそうだったけど、構わなかった。
足を自分の体に引き寄せて、膝に自分の額を押し付ける。お尻に当たる床の冷たさが体を冷やしてしまいそうだ。
膝を抱えて大きく、深く、息を吐き出した。
タイミングを見計らったのか、長い息を出し切ったあたしの足を綿の詰まった腕がポンポンと叩いてきた。
「……ミヨ」
「ルト、今は何も言わないで」
「……」
「お願いだから」
くぐもった声で溢されるあたしの言葉にルトは一瞬無言になり、「まったく……」と呆れて一際強くあたしの足を叩いた。
「お前は……『人間』からの厚意に怯えすぎだ」
「……」
「捻くれ者」
ぶっきらぼうに言い捨てたけど、座り込むあたしの横にぽすんと座って、それっきり無言になった。あたしがおもむろに、ルトの前に掌を投げ出すように差し出したら、綿の腕が掌の真ん中を軽く叩いた。
ぐらついて揺れてしまいそうになっていた、情けない部分が少しだけ、落ち着いたように思えた。
──あたしは、化け物だ。それはよく分かっている。
けど、それを分かっていてなお、あたしのことを真っ向から弁護したテオドールの言動が理解できなかった。知り合いでも昔馴染みでも何でもない、同じ任務に就いたというだけの見ず知らずのあたしを。
あたしを庇ったところで、あの優男には何のメリットもないのに。……むしろ、デメリットしかないっていうのに。見知らぬ「人間」からの親切心も、情けも、あたしには未知のものでしかなくて、少し恐ろしさすらも感じる。
…………分からない。あの金髪の男の考えが、分からない。あいつは……一体、なんなんだ。
──あんな、得体の知れない「人間」と任務に行かなくちゃならないのか。
また深く、深く、息を吐き出した。任務に行くことがこんなにも憂鬱に感じるなんて、いつぶりだろう。
……二日後の朝が来なければいいのに、と現実逃避でしかない馬鹿げた考えが頭を過った。
灯りの灯らない薄暗い部屋の中で、鬱屈な教団の日常をドア越しに遠くに感じながら、あたしはいつまでもそこに座り込んでいた。