プロローグ
「キャアァァァ!!!」
暗い森に耳を劈く悲鳴が響き渡る。
その声が鼓膜を震わすよりも早く、闇の中から影が飛び出した。木々の間を縫うように疾走するそれに、一切の迷いはない。
その影の両手からは、銀色に輝く二丁の拳銃が覗く。 目深に被られたフードからは、それの表情は伺い知れない。
しかし、その瞳は獲物を狙う獣のごとく前を見据え、爛々と輝いていた。
鈍く鮮やかな黄色の輝きが、闇の中に尾を引いた。
「いやっ…助けてっ!!」
必死に抵抗するか細い金切り声。先程よりもはっきりと聞こえてくる。その中に、かすかに赤ん坊の泣き声も混じっていた。
前方に、倒れ伏し踞る影と、それに向かって腕を降り下ろしかかる影を黄色の中に捉えた刹那。
疾走する影は躊躇いも無く、銃口をそれへと差し向け、引き金を弾いた。
「グギェェエエエ!!?」
おおよそ人とは言えぬ、まして獣と言うにも異様な声が反響した。銀の銃口から放たれた弾丸は、寸分狂わずその腕を貫いていた。
驚愕とも取れる咆哮を響かせ、中空に振り上げられたその腕は、しかし、シルエットからして見ても、明らかに異様な形をしていた。
闇を掛ける影の"目"には、すでにそれの姿形がはっきりと浮かび上がっている。
それは──人型こそすれ、腕が人間の倍以上は長い醜悪な、異形の化け物。
人食いの魔物だった。
勢いよく靴の裏で急ブレーキを掛ける。足裏から引きずられ悲鳴を挙げる乾いた落ち葉の音と、わずかに地上を這う木の根の感触が伝わってくる。
化け物は歪で、それでいて素早い動作で今しがた自分を攻撃してきた方向へと振り返った。
視線の先には、闇よりも濃い影が木々の間に不気味に佇む。顔などは一切見えないほど、暗く濃い影。
尋常な人間ならば、その姿だけでも本能的に恐怖を抱くことだろう。しかし、そもそもが人間とは程遠い化け物にはそこまでの知性も理性も持ち合わせていない。
影は自分の「食事」の邪魔をした。敵であることは疑いようもない。同時に、自分の餌でもある、と。
化け物の口から汚ならしい唸り声を漏らす。それに怒りと、下劣な悦びの響きが混じっているのを影は理解していた。
腕を振り上げ、奇声を上げながら影へと突進していく。腕や体が枝葉にぶつかろうが構わず、自身の単純な本能に突き動かされるまま、次なる獲物へと狙いを定めていた。
影はその場からじっと動かない。眼前にまで、魔物の腕が迫っていた。
異形な爪の生えた長い腕がさらに高く振り上げられ、影の頭目掛けて振り下ろされる。それでも、影は避けるつもりがないのか身動ぎさえしない。
しかし、次の瞬間。
突然影は身を屈め、魔物の懐へと飛び込んだ。魔物が反応するよりも早く、骨と皮ばかりのごつごつとした胸部に銃口を押し当て。
躊躇せずに引き金を弾いた。
銃声と肉を抉り、貫く音が嫌に響いた。
魔物は声にならない断末魔を吐き出し、白目を剥きながらその場に崩れ落ちる。
倒れた魔物には目もくれず、何事もなかったかのように平然と体勢を直し、先程までの悲鳴の主まで歩み寄った。そこに至った時には、魔物はすでに灰へと変わり風に流され消えていた。
「あ、あなたは…?」
地面に踞り倒れていた影──どうやら、この近辺の村の女のようだった。顔を上げ影を見上げるその目には、先程までの恐怖が滲み、憔悴していたが、自分を助けたその人物への敬意もわずかにちらついていた。
腕には、闇の中でも際立つように白い肌の赤ん坊が抱き抱えられている。今も怯えたように女の腕の中で泣き声をあげていた。
地面に座り込む女には、フードが影になっていて目の前に立つ人物の顔が全く見えない。
影は、倒れている女に手を差し伸べるでも話し掛けるでもなく、黙したまま静かに女を見下ろしていた。
何も言わずに見下ろしてくるその視線に居心地悪くなったように、女はぎこちない動作で慌てて立ち上がる。服についた落ち葉を払い改めてその人物を見ると、意外にも目の前の人物は自分よりも小柄であった。
赤ん坊の泣き声がにわかに大きくなった。
「あ、あの…?」
何も言わず、表情が見えないにも関わらず女の一挙一動を見逃すまいとしているかのように、影はじっと女の動きを追っている気配があった。黙したまま見てくるだけの目の前の人物に女は戸惑いと少しの苛立ちを表情に滲ませた。
女が何か言いかけようと口を開こうとした時、突然影は服の裾を翻して、女には目もくれず足早に歩き出してしまった。
「え、あ、あの!?すいません、お名前だけでも教えて下さいませんか?」
突然の行動に面食らい、女は慌てて追いかけるが、影は女の方を全く見向きもしない。
落ち葉で埋まり根の這う森の地面は、決して良い足場ではないのだが、その歩みは迷いがなく、素早かった。
「ま、待って下さい!せめて、お名前を」
赤ん坊を抱き抱えたままの女が息を切らしながらどうにか追いつき、その影の細い肩に手を掛けようとした、その瞬間。
パンッ、と一発、乾いた発砲音。
そして。
「ヒッ……ギャアァァァアアアッ!!!!いっ痛いッ…いだいぃぃぃぃぃぃッッ!!!?」
森に、女の絶叫が響いた。
女に触れられる寸前、影は突然立ち止まると振り向きざまに左手の銃で、あろうことか女の目玉を撃ち抜いたのだ。
闇の中でどす黒い血の色が飛び散った。
「いだいぃぃ…いやぁぁあッ」
「……ギャアギャアうるせぇよ。少し黙ってくんない?」
先程まで沈黙を貫いていた影が、ようやく口を開いた。尋常ではない激痛に狂ったように喚き散らす女とは対称的に、やけに冷静で面倒くさそうな響きの混じるその声はやや低めだが、紛れもなく少女のそれだった。
「ひっ、人殺しッ……人殺しィィイイィィっ!!!」
「はぁ…だからうるさいって」
影の少女は銃を構えたまま、女に一歩近づく。
女は片手で泣き叫ぶ赤ん坊を抱き、もう片方の手で血まみれの顔を押さえながら後ずさった。残されている片目は大きく見開かれ、黒目が忙しなくギョロギョロと左右に揺れる。
また一歩、少女は女に近付いた。
「こ、来ないでよ!!人殺し!!人殺しッ!!!」
「いちいち喚くな、うるさいっつってんだろ。お前に用はないから、さっさとその子渡せ」
口調は面倒くさそうな調子が混じっているが、フードの奥でぎらりと目が光った。そのことに女は気付きはしない。
白目は血走り、口の端から泡を飛ばすほどに激昂し、錯乱している。
もはや泣き喚くよりも悲鳴に近い赤ん坊の声が、必死に恐怖を訴え続けているというのを影はぼんやりと感じていた。
──少女の"目"には、"視界"の只中に小さく清らかな光が闇の中にその生命力を示すかのように、眩しく輝いている。
それの周りを、吐き気がするほど醜くどす黒いものが飛び交い、光を食い潰そうと纏わりついていた。
そして、『それ』から覗く血走った双眸が、憎悪を剥き出しにして少女を睨み据えていた。
また一歩、歩み寄る。
女は何かを喚きながら、顔を押さえていた手を必死に振り回した。血が飛散し銀色の銃とそれを握る手にも血が降りかかるが、少女はその程度で臆することはない。
「早く渡せ。どのみちお前は、」
言いかけたところで、女の全身が奇妙にがくがくと震えていることに気付いた。髪を振り乱し、頭が前後に大きく揺れ、口から血のような色の泡を吐き出している。
「こ、ない、で………く…る、な……く…んな…」
少女が立ち止まり、銃口を下げたその時。
「来んなっていってんだろがァァァッ!!!ごのグゾあま"ァァァァぁぁぁッッッ!!!!!」
突如女は耳を塞ぎたくなるような叫びをあげ、腕を少女に向かって勢いよく伸ばした。
その腕はもはや異様な形に変形し、先ほどの化け物と同じものと成り果てていた。
鋭い爪が、少女の顔目掛けて降り下ろされ──
グシャッ。
……どす黒い血が、夜の闇の中に飛び散った。
しかし。
「う、うデ、がっ…!!」
飛び散った血は、腕を食い千切られた女のもの。
そして、その原因は。
「よくやった。ケルベロス」
主である少女に褒められ、満足げに唸る三つ首の怪物。
地獄の門の番犬───"ケルベロス"。
ケルベロスは食い千切った腕をその三つの首でくわえ、そのまま互いに引き千切り、咀嚼する。
「な、ンデ……番犬、がッ…コこ、にっ…?!」
「それはお前が知ることじゃない。それに、もう用済み」
その言葉に女はハッと我に返り、さっきまで抱えていた赤ん坊がいつの間にか少女の腕の中にいることに気が付いた。
「がエせッ!それ、ハ、おれの、エざ……ヒッ、ヒィ!!?」
再び少女に向かって腕を伸ばそうとする女に、ケルベロスが立ち塞がり地響きのような唸り声をあげる。
女はへたりこみ、恐怖からか後ずさり始める。食い千切られた腕が激しく痙攣していた。
「…ケルベロス、命令だ」
少女は赤ん坊を抱き抱えたまま、もう興味もないと言わんばかりに女と自身の使い魔に背を向け歩き出す。
そして、至極あっさりと、残酷な命令を使い魔へと下した。
「そいつを喰え。骨も残さず」
「ッ!!?」
忠誠誓う主より命を下された三つ首の番犬は、三対の瞳を輝かせて鼻息荒く女ににじり寄る。毒々しく、底無しの沼のような貪欲な輝き。
口から垂れた涎が地面に穴をあけ、草花を枯れさせる。
「ヒィィいッ…!!!だ、だズけ…」
「……ああ、そういや名前聞きたがってたな」
少女はふと思い出したように立ち止まり、首だけを女の方へと向けかけた。フードから覗く口元が嫌な形に弧に描いている。
「…まぁ大した名前じゃないけど、冥土の土産にでも持っていけよ」
せっかく地獄の番犬が直々にあの世に送ってやるんだから、むしろ名誉に思えよ。
女の目には、薄気味悪く笑って見せた少女の姿が、自身よりも醜悪で残虐非道な悪魔の姿そのものに映った。
ケルベロスが放心した女へと鼻先を近づけ、三つの首は大きく口を開ける。
「………あたしの名前は──」
──暗い森に女の断末魔が響き、その余韻さえも包み込むような静寂に支配された。