追い詰められる狐
小春のわがままで、昨年から商いを始めた小間物屋かわせみは、新しい物、可愛らしい物に目の無い町娘達の間で人気となり、周りの予想を大きく越えて繁盛していた。
当初はかわせみで働く事を固辞していた佐吉であったが、手代として働ける上に簪職人も今まで通り続けられる好条件に、これを断ると反って変に思われるであろうと了承したのであった。
池田屋から、さほど離れていない本石町に借りた間口二間の小さな店は、小春が自分の目で選んだ白粉、紅猪口などの化粧を始め、花鹿子、刷毛、かもじ、袋物、そして佐吉の作る見事な細工の簪や櫛が、店内を華やかに彩るように並べられていた。
江戸でも一、二を競う廻船問屋 池田屋が小間物屋を始めたという話題性と、小春の見立ての良さ、それにそこで働く手代が歌舞伎役者のような色男だとの噂で、かわせみは開店当初から引きも切らぬ客で賑わっていた。
年の瀬を迎えて寒さも厳しさを増し、夕暮れの大通りは人の姿も疎らになっていた。最後の客を見送る為に表に出ていた小春が、店の暖簾を抱えて中に戻ってきた。
「冷えてきたわね、雪でも降るんじゃないかしら。二人とも、今日はもう終いにしましょう」
帳場では手代の信八郎と佐吉が、今日の売上を勘定し大福帳に記入していた。
「お嬢様、佐吉さん、それではお先に上がらせて頂きます」
池田屋に住み込みで働いている信八郎は、二人に挨拶をすると売上と大福帳を抱え、一足先に池田屋へ帰って行った。
「佐吉さん、うちに寄って夕餉を済ませていく?」お店の片付けを済ませた小春が佐吉に声を掛けた。
「お嬢様、菊屋さんに頼まれている花簪を仕上げたいので、今夜はご遠慮させて頂きます」
「もう、二人で居る時は、“お嬢様” はやめてと言ってるでしょ!」小春はぷうっと小娘のように膨れてみせた。
「すみません、お嬢様。あ……」
「ふふふ……もういいわ。しょうがない人ね」
小春は佐吉の手にそっと触れると「あまり無理をしないでね」と耳元で囁き、微笑みながら店を後にした。
佐吉は幸せな心持ちで小春の後ろ姿を見送ると、仕事用の座卓に向かい、作りかけの花簪を仕上げ始めた。
「ごめんよ、佐吉はいるかい?」声の響いた店の入口に目を遣ると、そこには岡っ引きの黒田が顔を覗かせていた。
「池田屋に行ったら、おめぇさんがまだこっちに居ると聞いたもんでな」
「これは親分さん、寒い中お勤めご苦労様です。今お茶をお入れしますので、どうぞ中に入って火鉢にでも当たって居て下さい」
「おう、そうさせてもらうよ。ううう……今日はいつに増して冷えやがる。古傷が痛んでしょうがねぇや、雪でも降るんじゃねえだろうな。こんな遅くにまだ仕事とは、ここは景気がよさそうだな」
「お陰様で、今年も何とか年を越せそうです」
「そうかい、そいつぁ上々だ。こっちはここの所、捕まるのは巾着切とか置き引きとかのケチな盗人ばかりでよ、本命の夜狐は一年前の池田屋を最後に何故かピタリと鳴りを潜めちまってさっぱりさ」
黒田は上がり框に腰を下ろし、腰に下げていたカマスから煙管を取り出した。雁首に刻み煙草を詰め火鉢に顔を寄せて火を付けると、目を細めぷかりと一服くゆらせた。
「ところが俺にも漸くツキが回ってきたようだ。奴が初めて盗みを働いたと思われる王子の米問屋に、運良く行き逢ったんだよ。手口からして間違いなく夜狐なんだがな、なんと奴さん厠に起きてきた家の主に顔を見られるドジ踏んでいやがった。その主は奴の顔をはっきりと覚えてるってんで、近々絵師を連れてって人相書を描かせる事にしたんだよ。これで奴も芝居の夜狐みたいに、追い詰められるてぇ訳だ。人相書が出来たら、ここと池田屋にも貼らせてもらうよ。そういや、おめぇさんも王子の出身だったよな?」
黒田は鷹のような鋭い目で佐吉を見詰めたが、能面のように無表情な佐吉の顔からは、何も読み取ることが出来なかった。
「おっといけねぇ、まだ寄らねぇといけない所があったんだ。仕事の手を止めちまって悪かったな」
「いえ、大したお構いも出来ず済みませんでした。宜しければ提灯をお貸ししますが」
「なあに、それには及ばないよ。馴れた路だ、目瞑ってても歩けらぁ。じゃあな」
背中を丸めて店を出ていく黒田の後ろ姿を、佐吉は厳しい眼差しで見送った。