疑われる狐
江戸の町を散策すると、そこかしこでお稲荷さまに行き会う。 "喧嘩と火事は江戸の華" と語られるように、江戸の町は頻繁に大火に見舞われていた。
そうした火難より町を守りたいと願う町民の手により、火伏せの守りの本尊であるお稲荷さまが町の辻々に建立され祀られていた。
稲荷神社の入口には、狛犬ではなく対の狐の石像が鎮座していて、口にはそれぞれ宝玉と鍵を銜えていた。宝玉は五穀豊穣の神を、鍵は神を祀る蔵を開く鍵を象徴していた。
日本橋界隈ではここ数年、大店の蔵を荒らす盗賊が出没し江戸雀の間で話題になっていた。この盗賊は人を殺めたり屋敷を荒らすなどの荒事は決して行わず、厳重に鍵の掛けられた蔵や納戸の扉を、事も無げに開けて盗みを働いていた。
その神業とも呼べる手際のよさから、蔵の鍵を銜えたお稲荷さまをなぞり、夜狐と称されていた。
深紅の楓の葉が舞い散る立冬の穏やかな陽射しの中、南本所花町長屋の共同洗い場は、朝餉の後片付けで集まって来た長屋の女将さん達の賑やかな声で溢れていた。
「おや佐吉さん、これから仕事かい?」
かしましくお喋りをしている女将さん達の視線の先では、色白で切れ長の目に歌舞伎役者のような整った顔立ちの若い男が、長屋の子供達に纏わり付かれ立ち往生していた。佐吉と呼ばれたその若い男は、簪や櫛などの小間物造りを生業にし、三年程前からこの長屋で暮らしていた。
「日本橋の池田屋さんに頼まれた小間物を、これからお届けに伺うところです」
「日本橋の池田屋と言えば、江戸で一、二を争う廻船問屋じゃないか。佐吉さん大したものだねぇ、そんな大店からお呼びが掛るなんてさ」
「これもひとえに御贔屓を頂いている皆様のお陰です。ここの差配さんと菊屋さんの口添えもあり、出入りさせて頂けるようになりました。さもなければ何の伝もない田舎者の手前なぞ、歯牙にもかけて頂けなかったでしょう。すみません、お茶でも飲みながらゆっくりとお話をしていたいところですが、池田屋さんもお忙しい中待っておられると思いますので、これで失礼します」
落ち着いた色合いの江戸小紋の着物を粋に着こなし、風呂敷に包んだ小さな箱を背負った佐吉は、にっこりと微笑み長屋の女将さん達に軽く会釈をすると足早に表の木戸へと向かった。
「佐吉さんは本当にいい男だねぇ。簪職人としての腕も確かだけど、腰が低くて礼儀正しいし、どこぞの大店の手代をしていてもおかしくないよね」
「まったくだよ、こんなおんぼろ長屋で燻っている なんて、もったいない話さね。まあ、うちらにとっちゃ、毎日いい男を拝めて眼福だけどさ」
「ああ、あたしも後十も若けりゃ、ほっときゃしなかったのにさ」
「三十若けりゃだろ」
「三十? それじゃ、あたしゃまだ生まれていないよ」
「馬鹿だねぇ。だから、そんだけ望みが無いって話だよ」
「佐吉」
長屋の木戸を潜った所で、佐吉は無精髭を生やした色黒の小柄な男に呼び止められた。
「これは黒田の親分さん、見回りでございますか?」
「まあ、そんなとこさね。佐吉、これからどこへ出張るんだ?」
「へぇ、日本橋の池田屋さんへ」
「ほう、池田屋ねぇ……」
黒田の親分と呼ばれた岡っ引きは、すうっと目を細めた。
「池田屋と言えばよ、表沙汰にはなってねえが二日前に押し込みがあったそうだ。蔵の扉には名のある鍵師に作らせた自慢の錠前が掛けてあったそうだが、その城門のように頑丈な扉が、厠の戸みたいにいとも容易く開けられていたそうだ。ところがおかしなことによ、女子供でも一蹴りすりゃ簡単に壊せる格子戸を残して、何も取らずに立ち去っていやがる。目の前には金子や高値な品が唸るようにあったにも拘わらずにだぜ。おかしな話しだよな、なあ何でだと思う?」
「さて、手前にはさっぱり……」
「手口からして昨今、江戸の商家を荒らし回っている盗賊夜狐に間違いないと俺は睨んでいるんだがな。池田屋は何も盗られてねぇし、何より大店の信用に傷が付くような事は避けてぇから、引き合いを抜いて内分ですませるだろうよ。おめぇさんは、いつから池田屋に出入りするようになったんだい?」
「へぇ、三月ほど前からですか。何かと御贔屓を頂いている小間物屋の菊屋さんの御紹介で、出入りさせて頂いております」
「そうかい……ところで話は変わるが、おめぇさん王子におっかさんがいたよな。長く胸を患っていると聞いたが、櫛職人の稼ぎだけじゃ、高値な薬代を工面するのは大変だろ。何か他に稼ぎ口でもあるのか?」
「お陰様で仕事もそこそこ頂いておりますし、多少なりとも貯えも有りましたので、楽ではありませんが切り詰めて何とか凌いでおります」
「そうかい、若いのに感心なこった。おっかさんを大切にしてやんな。そうだ、近いうちに池田屋にも寄らせてもらうから、宜しく伝えておいてくれよ」
「へぇ、お伝えしておきます。それでは親分さん、先を急ぎますので、これで失礼します」
深々と頭を下げた後、足早に立ち去る佐吉の後ろ姿を、鋭い眼差しで見詰めながら黒田は呟いた。
「一分の隙もない、食えねぇ野郎だ。 だがよ、その尻尾を必ず捕まえるぜ、夜狐さんよ……」