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夜狐  作者: おっさん
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闇に潜む狐

 



 暦ではそろそろ立冬を迎えようとする(さく)の夜。墨を流したような暗雲は(ほの)かな星明かりをも遮り、日本橋界隈を漆黒の闇で覆っていた。

 江戸でも有数の廻船問屋(かいせんどんや) 池田屋の軒下。鎮火用に積まれた天水桶(てんすいおけ)の脇に、漆黒の闇と同化したかのように潜む人影があった。

 夜空を覆っていた暗雲が寸の間途切れ、星明りにぼんやりと浮かんだその人影は、(とび)のような黒装束を身に(まと)った若い男だった。

 黒装束から覗く肌は白く透き通り、歌舞伎役者のような整った顔立ちをしていた。しかし、その目は野の獣のように鋭く光り、覗き見た者の心を凍らせる冷たさがあった。


 昼間は商人や物見遊山(ものみゆさん)の人々で賑わうこの界隈も、今は夜鷹(よたか)相手の振売(ふりうり)や屋台の姿も途絶え、闇と同様に深い静寂が支配していた。

 夜回りの拍子木の音が遠のくと男は鳶口(とびぐち)のような道具を使い、猫のように音も無く池田屋の塀を乗り越えた。 

 男は(ひざまず)くように身を屈め、中庭の植え込みに身を隠しながら母屋の裏に建つ蔵へと向かった。

 蔵の角に辿り着くと、男は用心深く辺りの様子を伺った。屋敷内は深い静寂に包まれ、起きている者の気配は全く無かった。

 男は蔵の扉の前で懐から布にくるんだ道具を取り出すと、足元に手際よく広げた。

 漆喰造りの蔵は外側から、夜戸、外戸、昼戸の三重の扉で厳重に守られていた。


 夜戸は蔵の外壁と同じく分厚い漆喰で塗り固められ、大火にも耐えられる造りになっていた。

 夜戸を封じている頑丈な(かんぬき)には、大人の頭ほどもある土佐錠が掛けられていた。

 日本刀と同じ上質の玉鋼(たまはがね)で作られ、女肌のような艶を持った見事な土佐錠に、男は暫し見蕩(みと)れた。

 男は足元に広げた道具の中から、(かんざし)の先に捻りを加えたような細い棒を二本取り上げると、一本は口に(くわ)え、もう一本は鍵穴に差し込んだ。

 棒の先端を微妙に捻りながら内部の板刎(いたばね)を押し広げ、口に銜えていたもう一本も鍵穴に差し込んだ。

 鍵穴に差し込んだ二本の棒を一緒に回すと、カチリという手応えと共に土佐錠は呆気無く開いた。

 男は五貫はあろう土佐錠と閂を、華奢な体にもかかわらず軽々と持ち上げ蔵の角に下ろした。

 瓢箪(ひょうたん)に入れた行灯(あんどん)の油を扉の蝶番(ちょうつがい)に差すと、重く分厚い夜戸を音を立てぬよう慎重に引き開けた。


 次に現れた外戸は、堅木の(けやき)で頑丈に作られた扉で、表には家紋をあしらった豪華な装飾が施されていた。 扉の中央には、工芸品のような美しさを持った箱型の海老錠が掛けられていた。

 先端がコの字型になっている棒を右側面の鍵穴に差し込み、捻りながら引くと鍵の内部がそっくり引き出されるようにして開いた。


 最後の昼戸は、仕事中頻繁に開け閉めする為、本来鍵も掛けない軽い格子戸だが、何故か小さな根付(ねつけ)のような錠が取り付けてあった。

 男は初めて見る小さな錠に、魅せられたように見入っていた。その小さな錠は名のある鍵師によって作られたらしく、表面には梅の花と(うぐいす)の見事な彫刻が施されていた。そして驚いた事に、その鍵には鍵穴らしきものが何処にも無かった。


「参ったな……こんな鍵は初めてだ」


 参ったなどと口にしながら、男の顔には嬉しそうな笑が浮かんでいた。鍵など外さなくとも、一蹴りすれば簡単に壊すことのできる華奢な扉なのだが、男は敢えて鍵を開けることを選んだ。

 男は鍵の表面を指先でなぞり、動きそうな部分を探した。鍵の側面に力を加えてみると、僅かだが隙間が出来た。

 その隙間に針を差し込み探ってみたが、これといった手応えは無かった。道具を変え色々試してみたが、開けるどころか隙間を広げることすら出来なかった。


 時を忘れ無心に鍵を(いじ)る男の耳に、日本橋本石町(にほんばしほんごくちょう)で鳴らされる、時の鐘の音が聞こえて来た。

 暁七(あけなな)つ、使用人が朝餉(あさげ)の支度に起き出す時刻になろうとしていた。


「ここまでか……」


 男は残念そうにそう呟くと、闇の中へ溶け込むように姿を消した。




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