イクオ博士のこと
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パタ、とソアラは本を閉じる。相変わらず難しい本ばかり……栞代わりに鳥の羽根をはさんであるのがドクターらしい。
「ねぇ、ドクター」
「ん?」
ソファーに乗り出して尋ねるソアラに、ドクターは入れたてのミルクティーを渡した。ふんわりと、いい匂い。
ソアラは両手でマグカップを持ち、ふうーっと息を吹きかける。ジンジャーブレッドに茶葉から煮出したミルクティー、というのがソアラの揺るぎない組み合わせであることを、ドクターはしっかり承知している。
「5・6才くらいの男の子知らない? 顔は……まあ、かわいいけど」
ドクターは一緒に飲んでいたバリーズティーをこぼしそうになった。
「……顔?」
「きっと黒髪の……東洋人の男の子。私よりちっちゃくて、華奢なの」
ソアラをまじまじと見つめ、ドクターはおもむろに手を髭にやった。
「珍しいな……君がそこまで容姿に言及するなんて。その子にどこで会ったんだね?」
ソアラは少し考えてから答えた。
「中庭にいたわ。地球を見てたみたい」
「……事故?」
問い返すソアラに、ドクターが視線を落とした。
「そう、君も聞いたと思うが3ヶ月前に……突然の知らせだった。優秀な人材をたくさん失ってしまった……その中にあの子の父親、イクオ博士もいたんだ」
「イクオ博士!」
ソアラだって知っている。ヒナタ・イクオ――若くして宇宙考古学の権威であり、物理学者として宇宙飛行士となり、これまでのミッションの船外活動で数々の功績を残した人。SSCの人は誰もが口にする。〝極東の天才〟と。
「あの事故の日、イクオ博士を含めた数人のグループで、観測と実験のためにシャトルに乗り込んだ。そこにあの子もいた」
「そんな!」
ソアラの声が跳ね上がる。
「あんな小さな子が参加出来るわけ――」
「息子も宇宙へ連れていくというのが、ミッション参加の条件だったというのは有名だよ。息子を一人置いていけないとイクオ博士は首をなかなか縦に振らなかったそうだ」
ドクターは飲みかけのマグカップをテーブルに置くと、眼鏡を外した。
「イクオ博士……私はヒナタと呼んでいたがね……彼は故郷の天文台で父と子二人、観測をしながら暮らしていた。奥さんを早くに亡くして、息子だけ置いていけなかったんだろう」
眼鏡の曇りを拭き取り終えると、ドクターは再び眼鏡をかけた。フレームはお気に入り、金属製のアンティーク。
「……そう」
推し量るようにソアラは言った。
「しかし、さすがヒナタの息子だ。幼いが飲込みが早くて、正式に搭乗許可が降りた。しかも、あの子は父親の研究内容をすっかり熟知している。だからあんな幼い子でも十分助手がつとまった、というわけだ」
やや興奮気味に説明するドクターに、ソアラは胸に湧いた疑問を投げかける。
「優秀なのね。でもどうやって助かったの? シャトルも他のクルーの遺体も回収出来なかったんでしょう? シャトルからここまで、あんな長い距離を流れてくるなんて、宇宙に風があればともかく――」
ドクターは頷いた。
「私も皆信じられないよ。未だにね。ただ事実、あの子だけが助かった。身一つ、宇宙服のまま周回軌道上に漂っていたあの子をエド達が見つけたらしい。もう少し遅ければ酸素も水も尽きていた。気を失っていただけで健康状態になんら問題は無い。むしろ、精神的なショックの方が心配でね」
ソアラは腑に落ちたように呟く。
「……心が見えなかったの」
ドクターは何も言わず、次の言葉を待っている。ドクターはソアラの見る世界を常に理解してくれようとしている。
「あの子、闇に閉ざされているみたいだった」
ドクターはしばらく手で髭をこすっていた。何か考え込んでいる時のくせだ。
「事故直後は何も食べないし、大変だったようだ。事故の前後の記憶もまだ思い出せないようだし…… シャトルに一体何が起きたのか、あの子が思い出せるまで、真相は真空の闇の中というわけだ」
再びマグカップを持ち上げながら、ドクターは付け加える。
「……今はエド達が面倒を見ているようだが」
ドクターは一つ溜息をついた。
「彼らも次のミッションに向けて動き出しているし、あの子から目を離さず、と言うのも難しいかな」
「……」
黙ったままのソアラにの頭をドクターはそっと撫でる。
「……心配かい?」
ソアラはとっさに顔を上げる。ふいに涙がこぼれそうになって、慌てて俯く。眼鏡の中の眼差しがあまりに優しかったからだ。
初めて会った時も、ドクターがこんな眼をしていたのを覚えている。冷えたソアラの体を抱き、大丈夫だと言ってくれた、あの時のことを――
「助け舟を、出せないかしら」
「ソアラ?」
「ねえ、ドクター? あの子と打ち解けるにはどうしたらいいと思う?」
ドクターは腕を組んでうなる。
「まず……」
「まず……?」
「美味しい食事……かな」
そうか! とソアラは両手を打った。
「おもてなしよ」




