何の役に立つのか
作者が科学寄りの人間なので例が偏っていますが、そこは気にせず読んでいただければと思います。
このお話は現代かもしれないし、五十年先の未来のことかもしれない。もしかすると数百年後のことかもしれない。
そんなとある時代の地球に、ある一つの国がありました。
この国はある時期を境目に産業が急に発展し、今や世界を先導する技術力で国の成長を果たした、いわゆる「経済大国」でした。
とは言え、別に国が裕福というわけではなく、他国に多額の借金もしていれば、外国市場の影響を簡単に受けやすく、今の景気も決していい状態ではありませんでした。
こんなとき、この国の政治家は決まって言う台詞があります。
「それは何の役に立つのか?」
この台詞は、主にこの国の経済に直接貢献しない、もしくは大きな貢献を見込めないような仕事に従事している人、またはその仕事そのものに向けての言葉でした。かと言って、彼らは社会的には何らかの貢献をしているはずなのですが、早く経済を潤すことしか考えていない政治家にはそれが伝わりません。
今年は、多くの地方プロ交響楽団が、やむなく解散しました。
それまで運営費のほとんどを地方自治体からの助成金で賄っていた楽団は、各自治体にとってはお荷物でしかなく、それぞれの地方に不必要なものとして助成金を全額カットされました。
当然多くの楽団はそれらの地で存続できるはずもなく、この国の一つの文化が消えてしまいました。
その五年後には、多くの博物館が、博物館としての機能を失いました。
博物館とは、科学や芸術など人類の営みを収集・保管し、恒久的に展示・研究しならが教育普及をするための施設です。つまり、従業員にとっても来館者にとっても“学び”のための施設であり、商業施設ではありません。その運営費のほとんどは、やはり国や地方自治体からの助成金でした。そして、博物館もまた社会経済に直接貢献しない“趣味”のような分野であるとして、助成金が大幅に削減されてしまいました。
しかし、そんな状況になってしまえば、計画していた展示を作り上げることも叶いません。それどころか、その他の資料の収集や研究に使えるお金もなくなります。でも、こうなってしまった以上、それぞれの博物館は来客数を上げる他ありません。そのため、残った助成金をすべて展示や教育普及事業に注ぎ込みます。
それでも、少ない助成金で作り上げられる展示には限りがあり、中途半端なものしか生み出せません。また、展示のために助成金を使い果たしてしまったので、新しい資料収集もできず、研究も全く進展しません。
同じ状況が何年も続けば、新しい知識もないままの展示が繰り返されるだけで、教育普及としての機能も低下し、この国の博物館ではもはや新しい学びを受けられなくなってしまいました。
その十年後には、多くの学者がこの国にいられなくなりました。
この国の産業を支える科学技術、例えばロボットや電化製品、食品や医療といった分野や知識を根底から作り上げているのは、線形代数や幾何学といった数学、そして基礎物理学や基礎生物学などの基礎科学です。むしろ、それがなければ今日の科学技術はありえません。
しかし、これらの学問が抱える悩みは、産業に直接貢献できるほどの大きな成果を得られるのにはとても長い年月を必要とすることです。そのため、小さな研究を何重にも積み重ねて知見を蓄える必要があるのですが、この国の政治家たちはすぐに経済成長を図れるような成果を求めるので、なかなかその重要性を理解してもらえません。それどころか、産業を直接動かしている大企業の研究機関に同じ研究を任せた方が得策であると見なされ、大学や公的研究機関の数学者や基礎科学者への科学研究助成金を大幅に削減してしまいました。
そんな事態に陥れば、多くの数学者や基礎科学者たちは思うような研究を行うことが出来ず、学者としての地位も落ちてしまいます。
同じことは文系の学問でも起こりました。
この国に自分の目指す学問の未来はないと感じた多くの学者たちは、もっと学問や研究が盛んな国へ移住していき、この国にあらゆるものの基礎となる学問はなくなりました。
さて、このように「何の役に立つのか?」を「経済効果」と見なして多くのものを削減していったこの国の政治ですが、一体何が残っていることでしょう?
一六年前にこの国から一つの文化が失われたわけですが、それは決してこの国では公演を行わないということではありません。というのも、他国から来た世界トップを誇る交響楽団の演奏会は沢山開かれています。国内の有数の交響楽団も、まだ国によって残されていました。
しかし、そのどれもがチケット代が高く、一般人でも高収入の人しかとても払えません。もちろん、これから音楽家を目指すような学生にとってはとても手が出るようなものではありません。これが昔存在した交響楽団であったなら、安価に聞くことが出来たものを、成長盛りの時期にプロの演奏会を聞けないという事態に陥ります。
つまり、この国の文化を創り上げる人材を養えません。
十年前には、多くの博物館で新しい学びを受けられなくなりましたが、このときこの国では子供の学力を上げる方が最優先事項とされていて、難関進学校や難関大学に入学するための勉強が子供のための主な教育となっていました。そんな子供たちにとって博物館での知識というのは受験に何のためにもならず、また博物館も新しい知恵や知識を与えることも出来ないため、博物館へ来る子供の数が大幅に減りました。
子供たちは受験科目という広いようで非常に狭い勉強で満足してしまい、幅広い知識に乏しくなりました。
多くの学者たちがこの国を去って十年後、この国の科学技術の発展は停滞してしまいます。というのも、電化製品も食品産業も医療技術においても、どの企業も同じ技術を持ち同じような製品を創り出しているため、企業間での差別化が図れません。そのために色んな工夫をしては見るものの、大きな成果はなかなか得られません。
やはり基礎から研究し直す必要があるかとも考えられましたが、大企業は何年も成果が出ないような基礎研究をあまりしたがらず、昔いた数学者や基礎科学者もいない状態では、新たな人材も育ちません。結局のところ基礎研究はそこそこに、技術開発ばかり行われていたのでした。
そんなある日のこと、他国の研究チームがとある研究発表を行いました。
内容は基礎物理学による非常に単純明快なものでしたが、この国にとっては恐ろしいものでした。何故ならば、この国で絶対的存在の一つとして扱われ続けてきた電気技術の安全性を、土台から崩すような内容だったからです。
この国の産業を揺るがしかねない他国の大発見に、この国の電気会社は製品改良を求められます。しかしながら、基礎物理学の分野からの基礎研究を行えるような人材はこの国にはいません。幸いにして、この大発見した研究チームの中に、かつてこの国にいた基礎物理学者がいたので、企業も政府もその学者を呼び寄せようとしました。
しかし、一度国から疎まれたその学者がどうしてこの国に戻ってくるのでしょうか?
そうこうしているうちに、同じことが食品産業や医療技術においても起こりました。
何とか国の人材のみで解決を図ろうとするものの、基礎を疎かにしていた人たちでは解決策を見つけることは叶いません。
この国の産業はたちまち瓦解していきました。
あらゆる豊かさを失ったこの国に、かつて交響楽団にいた人たちや博物館の人々、そして外国へ出ていった学者たちが思うことは一つだけです。
「果たしてあの削減は一体何の役に立っていたのか」。
直接「経済効果」を及ぼすものが「世の中の役に立っている」と思われがちな世の中で、そういったものが注目浴びやすく、そしてより技術革新しやすい環境になっていますが、その裏でどんなことが起きているか。
上に挙げた削減例は実際に現代日本で起こっていることです。突き進めば極端な例として上記のことが挙げられますが、こういうことを無関心に捉えないで欲しいと、切実に思います。