その掌に増えるもの4
「本っ当にすみませんでした!」
今、私は、瑠璃の人魚亭にいる。そして、目の前の海坊主に土下座の真っ最中である。
海坊主はガハハと笑って、まぁ気にすんな、と逆に私を励ましてくれている。顔も体もゴツイけど、中身は天使様のように優しく慈悲深いおじさんだった。
なぜ、こんな状況に至ったかを説明しよう。
全ては、我が雇用主アイリーンさんの陰謀だった。
「だって、この乾いた季節に、あんた、黴が生えそうなくらいジメッとしているんだもの。これは彼氏と喧嘩したなって、すーぐわかったよ。何とか仲直りさせてあげたくってねぇ」
つまり、彼女のシナリオはこうだ。
まずは私の帰宅時間を遅らせて、暗い夜道を一人で歩かせる。そこに丁度よく暴漢が現れる。暴漢に襲われるか弱い私! 大ピンチなるも、颯爽と駆けつけたナナシに無事救われる。
ありがとう、ナナシ。やっぱり頼りになるわ! と、めでたく一件落着……するはずだったのだが、ここで誤算が生じた。
ナナシが異様に強すぎたということだ。暴漢役の海坊主さんを、一撃で吹き飛ばしてしまうほどに(これでも相当手加減していたらしい)。
ちなみにこの海坊主、定期貿易船に乗り込む真面目な水夫さんだった。人魚亭の常連で、顔が怖いから暴漢役をアイリーンさんに頼まれたのだという。
それでナナシに気を失うほど痛めつけられたのだから、気の毒すぎて笑えない。申し訳なさに身が縮む。
いや、真に身を縮めるべきは私ではなくアイリーンさんだと思うのだが、彼女は椅子の上にふんぞり返って反省する気配など微塵も無いので、代わりに私が平謝りしているというわけである。
何だかなぁ……。
そう言えば、この三文芝居のもう一人の出演者、レイフさんは、本物の痴漢や通り魔に私が狙われないように、やはりアイリーンさんに頼まれてこっそり護衛してくれていたということだった。道理でタイミングよく現れたはずである。
護衛費用は幾らなのかと聞くと、人魚亭の日替わり定食三日分で手を打ったと彼は言っていた。
安いな、おい……。
「アイリーンさん、ありがと。ナナシと仲直りしたよ」
素直に感謝して良いものか、疑問の残る部分は多々あるが、ともかく私は雇い主に礼を言った。
「終わりよければ、全て良しってね!」
人気酒場を一人で切り盛りする豪快な女将は、高笑いを響かせつつ、異国から仕入れて来たという高価なワインの栓を開けた。
今日は定休日なので、店の中にはアイリーンさんと私、レイフさん、海坊主さんしかいない。ナナシは、事の詳細を聞くと「俺は行かん」とへそを曲げてしまった。
ナナシは基本真面目な人だから、たとえ好意に基づくものでも、他人を巻き込むような小芝居は好まないのだろう。
「あの魔術師、いい男だよね。私の別れたアホ亭主に爪の垢煎じて飲ませたいくらい」
小芝居の種明かしの集まりは、いつの間にか宴会になっていた。料理人がいないので、アイリーンさん自ら腕を振るってくれた。
苦手なんだよ、と言う割には、テーブルの上に並んだ料理は豪勢だった。特別高価な食材は使っていないが、とにかく種類が多い。
オムレツに、麺入りサラダ。魚のフライ。唐揚げっぽいものもある。
にんにくを効かせたピラフは一口食べるともう匙が止まらない。この国はパンが主流だけど、米も普通にある。
そういえば、ナナシは米は食べたことがないと言っていた。彼はパンしかない国で育ったようだ。
ああ、そうだ。ピラフやチャーハンを私が作って、食べさせてあげよう。このガーリックライス美味しいなぁ……。
宴もたけなわになって来た頃、すっとアイリーンさんが近付いて来て、耳打ちした。
「あの晩さ。給仕の子に手紙届けさせたんだよ、あんたの家に。今夜は遅くなる、帰りは十時くらいだって」
私のビールジョッキに、彼女はどぼどぼとワインを注いだ。
こんな強い酒をジョッキで飲むのか……悪酔いしそうで怖い。
「もう家にいなかったんだよ、ナナシさん。いやー、焦った。これじゃ計画がぱぁじゃん、って。でも、あんたが襲われた時にはちゃんと駆けつけてくれた。こっちが連絡するまでもなく、あんたのこと心配して迎えに行っていたんだね」
冷戦中なのに、たかが居候のためにそこまでする男、そうはいないよ?
アイリーンさんがジョッキの中身をぐーっと煽った。
彼女の別れた夫は、金が欲しいから、アイリーンさんに逆に夜の店で働けと言ったそうだ。まだ乳飲み子のエリアス君がいるのに。
一発ぶん殴って家を飛び出して今に至る……いつも闊達な彼女の顔が、少し寂しげに見えた。
「ちゃんと捕まえておきな。つまんない事で喧嘩するんじゃないよ」
「うん。今日家帰ったら、ナナシにちゃんと謝る。全部私悪い」
「一体なにやったのさ?」
とのアイリーンさんの問いに、返答に窮した。
正確に説明しようと思えば、ナナシが幽霊もどきだった頃のことから話さなければならなくなる。
自分の拙い語彙でそれが出来るとは到底思えなかったし、そもそも体を持つに至った特殊すぎる経緯を迂闊に口にして良いものか、判断しかねた。
「ええと」
だから、私は、私なりに要点を絞って表現したつもりだったのだ。
「今の彼より、前の彼の方がいいって言ったの」
ぼたっ、と、アイリーンさんの手から鶏の唐揚げが落ちた。レイフさんと海坊主さんも、目を見開いたまま固まっている。
「ほ、本当にそう言ったの? 今彼に」
「うん。ナナシ、ガッカリしていた」
「いや。ガッカリ、っていうか、普通ぶちギレるんじゃ」
「でも、前の彼に慣れていたから、今の彼に慣れるの、大変で」
「な、慣れるって何を……!?」
「ええと……。体?」
海坊主さんが、ぶはっ、と酒を拭き出した。激しく咳き込む彼の背中を、隣に座っていたレイフさんが一生懸命に撫でさする。
二人とも、何を慌てているのだろうか。
「う、うん。話は……何となく、わかった。とりあえず、今彼の前で元彼の話はやめた方がいいよ。男って案外嫉妬深いしね」
アイリーンさんまで口元が引き攣っている。なぜ?
「ちゃんとナナシに大好きって言ったのに」
「言ったの。なぁんだ。それなら……」
「腕も足もナナシが好きって、ちゃんと言ったの」
「……ごめん。意味不明だわ……」
その後、アイリーンさんもレイフさんも、海坊主さんまでも、具体的にその話題には触れようとしなかった。
白面黒布のナナシについて詳細を語る気は初めから無かったので、それはそれで望むところだったのだけど……。
何だろう。何か、みんなの見る目が変と言うか。
「ユイカ。もういない元彼より、大事にしてくれる今彼の方を一番に考えるんだよ!」
「うん?」
「どうしても元彼が忘れられないっていうなら、ナナシさんと一緒に住んだりしちゃ駄目だ! 期待持たせるだけ残酷だからね!」
「う、うん」
そうか。ナナシと一緒に住むの、やっぱり良くないのかぁ。
どうしたって迷惑はかける。今回みたいに酷い事を口走って相手を傷つけないとも限らない。
それに、私も一応若い女には違いないのだから……変な誤解や噂でも立ったら、ナナシもきっと困るだろう。
うわぁ、落ち込むかも。
私が居候することに、ナナシ側にメリットが何も無い。
無事就職も出来たし、本当にレイフさんの隣の部屋に引っ越そうかな……ちらりと真剣に考えた。
小芝居の反省会を終えた後、ワインのもたらす心地良い酩酊感にフワフワしながら、帰途についた。
見慣れた古い洋館に、陽が落ちる寸前に辿り着いた。
「おかえり」
ナナシがいつものように出迎えてくれる。
アイリーンさん手作りのお土産を、私は魔術師の前に差し出した。
「ただいま。宴会の残り。これ手羽先」
「……宴会って。酒くさ」
「えへへ」
「酔っているな……」
「うん」
謝るなら今だ。
そう思った。
お酒の力を借りた今なら、土下座だって出来る気がする。そして勢いがあるうちに、家を追い出さないでくれとお願いするのだ。
ナナシに何もメリットが無くても、やっぱり私はナナシの側にいたい……。
「ナナシ、ごめんなさい」
「何が」
「ひどいこと言った」
「そうだっけ。……忘れた」
「私、忘れない。絶対に言っちゃいけないこと。私悪い。本当にごめんなさい」
「それは違う。……俺もお前に少しうるさく言いすぎた」
ナナシがわずかに目を細めた。
太陽の位置は低く、窓から差し込んでくる無遠慮な斜めの陽に、その顔はほんのりと赤く染まって見えた。
「ここに残ると決めた以上、お前が外に興味を持つのは当然なのに。前と同じように手元に閉じ込めようとした……」
「ナナシ怒ってない?」
「俺は初めから怒っていない」
「でも、ずっとご飯一緒してくれなかったよ」
「それは、お前を見たらまた口を出したくなるから、少し距離を置いた方がいいかと思っただけで」
ばつの悪そうな表情をして、ナナシがふいと横を向いた。
「怒ってなかったんだ……」
ああ、そうか。そうなんだ。
てっきり顔も見たくないくらい嫌われたと思っていた。
ほっとして、目頭がじんと熱くなった。滲んできたものを拭おうと目元に手をやると、それよりも少し早く、ナナシの指が私の涙を掬い取った。
「ユイカ」
あれ?
なんか、顔が近い。
「俺は……」
その瞬間、玄関の呼び鈴が鳴った。
無視できない音量としつこさで、鈴は鳴り続けた。
ナナシが悪態をつきながら音の発生源に向かった。ドアを開ける。アイリーンさん、レイフさん、海坊主さんが立っていた。
両手に持った酒瓶を高々と掲げ、
「二次会しに来たよん」
アイリーンさんがカラリと笑った。
「二次会って」
呻くナナシには頓着せず、客人たちはどかどかと屋敷内に上がり込み、結局、その晩は午前二時まで歌って踊って大騒ぎして、当たり前のように泊まって行った。
アイリーンさん、十一歳の息子放置して良いのか……。
「広いけど、掃除大変そうだね、この家」
「余計なお世話だ」
「ユイカ、掃除が大変なら、俺の部屋の隣が空いて……」
「そこの傭兵、うるさい!」
「あー。魔術師の旦那。悪いが帰る時に湿布をくれないか。腰やら背中やら痛くて」
「……すまん」
ラスタの街で、友達が増えてゆく。
私も。ナナシも。
こういうのって、いいなぁ、と思う。
こういうのを、大事にしたい。
「その掌に増えるもの」終了です。
ユイカだけではなく、ナナシにも、大切なものが増えた……かな?




