その掌に増えるもの3
ガシャン、と大きな音がした。
掌から滑り落ちた大皿が、足元で、ものの見事に真っ二つに割れた。まだ残り物の料理が上に載っている状態だったので、辺りは目を覆わんばかりの惨状となった。
アイリーンさんから任されていたのはホールスタッフのはずだったのに、ぼうっとして二回も注文を取り違えてしまい、皿洗いに回された。これも立派な仕事だから別に不満はないけれど、その皿洗いでも既に食器を三つ駄目にしている。
情けなくて、申し訳なくて、涙が出た。
一緒に皿洗いをしているバイト仲間のロラさんがまた良い人で、
「ユイカ。今日はもうあがったら? アイリーンさんには私から言っておくよ」
優しい言葉に、自己嫌悪は増すばかり。
「うう……。でも」
ナナシとの冷戦は、今日で三日目だ。私が彼に怒っているのでは無論なく、彼があからさまに私を避けていた。
朝は私が目を覚ます前に出かけてしまうし、夜は帰ってくると真っ直ぐ自分の部屋に閉じ籠もってしまう。
かと言って、徹底的に無視するとかそういう意地の悪いことはなく、屋台の惣菜がちゃんと朝夕のテーブルに用意してあった。他にも、急遽必要が生じた場合に備えて、まとまった額の現金までわかりやすい位置に置いてある。
勝手にしろ、って事なのだろうか……。
「ユイカ。悪いわね。今日は忙しいわ。延長してもらえる?」
アイリーンさんの鶴の一声で、夕方四時までの私のバイト時間が伸びた。
遅くなんてならないから、危なくないよ、って、つい三日前、ナナシに言ったばかりだったのに。
その舌の根も乾かないうちに……何やってんだろ、私。
「ナナシの言うとおりだった。遅くなっちゃったよ」
夜が更けるに従って、人相の悪い客たちは、確実に増えてゆく……。
結局、アイリーンさんから「あがっていいよ」の一言をもらえたのは、夜の十時近くになってからのことだった。
ほとんどずっと立ちっ放しで、足腰が痛い。ナナシの洋館は街外れにあり、そこまではたっぷりと一時間をかけて歩き続けなければならず、いっそ道路の端っこで朝まで寝てしまいたい気分だった。
昼間なら辻馬車があるので、大した距離じゃないのに。
アルバイトをしたいって言ったのは私だけど、アイリーンさんをうっかり恨んでしまいそうだ。
人気どころか、街灯の明かりもろくすっぽ無い暗い夜道を、とぼとぼと歩く。
光源が月明かりのみだと、電気のない世界は本当に暗い。
(ひぇ……)
うおおぉん、と、狼の遠吠えが聞こえてきて、足が竦んだ。
街中だよね、ここ。犬だよね? 狼じゃないよね? いやそれどころか、魔物じゃないよね?
こっちの世界に来てから、丸二年。真夜中に外なんか出歩いたことはなかった。どうしても必要に迫られた時は、必ずナナシが隣にいてくれた。
……あの頃のナナシ自体が、幽霊みたいなものだったけど。
まぁ、それは言うまい。とにかく一人ではなかったのだ。これが重要。
あ、やばい。泣きそう……。
「よぅ。お嬢ちゃん」
背後から肩を叩かれた。無人の夜道、という状況も手伝って、私はびくんと大袈裟なくらい飛び跳ねた。
振り向くと、視界を覆い尽くすような巨体がそこにある。
晩秋のこの時期、なぜこの人は半袖なんだろう。その腕がどうしてこんなに黒いんだろう。ああ、毛深いのか……。
でも頭は月光を浴びて燦然と輝いている。海が近いから海坊主が出たのかと思った。
海坊主なんてもちろん見たことはなかったが、きっと……たぶん、こんな感じ。
「お嬢ちゃん、俺に送らせろ」
海坊主の台詞に、今度こそ私の思考は止まった。
軟派、よりも先に、痴漢、の二文字が脳裏を過ぎってしまったのは、この相手では致し方ない。
ぎゃあああ、と、お嬢さんらしくない悲鳴を上げて、私は脱兎のごとく逃げ出した。……が、たぶん十秒も経たないうちに、信じられない事が起こった。
何もない平坦な道のど真ん中で、足を掛けられたわけでもないのに、ずでん、と、すっ転んだのである。
「い、いたた」
のしのしと海坊主が迫ってくる。
起き上がろうとして、足首に痛みが走った。うわー……挫いている。
「やだ……あっち行ってよ」
路上に尻餅をついたまま、ずりずりと後ずさる。
背中が塀に当たった。背水の陣になると、迫りくる蛸入道がますます大きく見えて、体の震えが止まらなかった。
指の第一関節まで毛の生えた手が迫ってきた。ある意味、面と布だけだったナナシより怖い……。
「ナナシっ!」
悲鳴の代わりにその名を叫んだ時、冷たい風が目の前を駆け抜けた。
熊のような巨体が空を舞った。何か大きな力に持ち上げられ、投げられでもしたかのように、本当に高々と飛んだのだ。
唖然としている私からはかなり離れた距離に海坊主は落ち、転がり、そして全く動かなくなった。
「なんだ。見た目ほどじゃないな……」
下弦の月を背に浮かび上がる、すらりとした細身のシルエット。人になった魔術師が好んで身に付けている、くるぶし近くまで届く、黒く長いコート。
「ナナシ……!」
立ち上がり、喜び勇んで駆けつけたいのに、なぜか足が竦んで動けない。
海坊主の毒気にあてられたからではなかった。私は、助けに来てくれた銀の魔術師に対して、むしろ、どうしようもないほどに恐怖を感じていたのだ。
「ナナシ……?」
ナナシの周りの景色が薄明るい。
儚い月明かりに、きらきらと空気が光る。
足元の地面も、道の片側にそそり立つ高い塀も、手入れされた街路樹も、全てが氷に覆われていた。ピシ、と、時々不吉な音を響かせながら、氷は更に厚く広く、確実にその範囲を広げつつあった。
いつか、森で見た時と同じ。
でも、今夜は、螺旋の中心にいるナナシは凍り付いていない。酷薄な、残忍な、けれどこの上もなく美しい悪魔のような微笑を浮かべて、そこに佇んでいる。
ナナシがすっと手を上げた。掌の向いた先には、倒れて動かない海坊主がいる。
ぞっとした。いや、まさか。止めを刺そうとしている?
「ナ、ナナシ! 駄目ぇっ!」
尻餅をついている場合じゃない。足の痛みも咄嗟に忘れた。
私は無我夢中で飛び出した。
別に、痴漢を守ろうなどという、人のいい事を考えたわけではない。明らかに様子のおかしいナナシに、人殺しなんかさせたくないだけだった。
私がいた現代と、魔法と魔物の存在するこっちの世界とでは、命の扱いがもしかしたら違うのかもしれないけれど。
そんな小難しい話、今はどうでもいいわけで。
「やめてっ……!」
不意に、大きな影が私の前に立ちはだかった。
影は、ナナシから放たれた衝撃波のようなものを、信じられないことに剥き出しの素手で受け止めた。二の足で踏ん張っているその長身の体躯が、ずず、と数歩分も押されて下がった。
「レイフさん!」
彼がふっと何かを呟いた。まだこちらの言語を習得しているとは言い難い私の耳には、早くて聞き取れなかった。
次の瞬間、レイフさんが手で押さえつけていた力の塊が、目も開けられないほどの風を孕んで飛散した。弾けた残滓だけでも易々と石の壁を砕くほどの、凄まじい威力だった。
「驚いたな、こいつ。とんでもない魔術師だぞ。なんで薬師なんて……」
私はレイフさんの脇を駆け抜け、そのままナナシに飛びついた。
「落ち着け、ナナシ! 私、無事! この通り。ピンピン!」
私の渾身の体当たりに意表を突かれたらしく、ナナシがよろけてたたらを踏んだ。足元が薄氷に覆われて滑りやすかったのもあり、仲良く二人ひっくり返った。
座り込んだナナシの上に、私が半ば乗っかるような形になる。
呆けた顔つきの魔術師と目があった。ああ、まずい、押し倒しちゃったよ、と私はわたわたと両手を動かした。
「えーと。えーと」
不可抗力。想定外の事態。そう。そう言いたいのだ。しまった単語がわからない……!
「くっ……あははは!」
ナナシが突然笑い出した。
「なんで笑う!」
二本の腕が容赦なく絡み付いてくる。強くて無遠慮なその抱擁が、でも、今は、決して不快ではなかった。
私もまたナナシの背に両腕を回した。鼓動の音を聞き分けたくて、彼の胸に耳を擦り付けた。
ぬくもりが伝わる。血の通った気配。
大丈夫。大丈夫。この人は普通の生きた人間だ……。
「俺を転ばせるなんてお前くらいだ」
形良い唇が、ゆるく弧を描く。青い瞳に、底知れぬ闇は既にない。見慣れたナナシがそこにいた。
私の素っ頓狂な言動に振り回されつつも、最後にはいつも笑って許してくれる、優しい魔術師が。
「……怪我はないか?」
「うん。無事。ナナシ助けてくれたから。ありがとう」
ぎゅ、と、彼の手を握り締めた。
私は、私のために、この手を血で汚させたくない。
ナナシは、きっと、まだ不完全。
取り戻した人の体に、心か、魂か、何かが……中途半端に追いついていない。
「帰ろ、ナナシ。ナナシ一緒なら、もう変な人出てこない」
ふと見渡せば、辺りの氷が融け始めていた。これが乾けば全て元通りになるだろう。
壁の破損は……うん、バイト一生懸命頑張ろう。修理代を稼ぐのだ。
海坊主の後始末はレイフさんが引き受けてくれると言うので、その言葉に甘えて、私は魔術師と二人で帰途についた。
「ね。ナナシ。話変わるけど」
「?」
「ナナシへの贈り物。私をプレゼントの話」
「……それについて、今から訂正する。よく聞け」
「へ?」
ナナシから……まぁ何だ、ちょっと色っぽい意味にも取れるということを、ようやく聞いた。
わははは。こんな恥ずかしいことを連呼していたわけか、私。
……誰か、穴をそこに掘って欲しい。
潔く入るから。
いや、むしろ、掘った穴に向かって声を大にして叫びたい。
「アイリーンさんの大嘘つき!」
次回、「その掌に増えるもの」終了です。




