その掌に増えるもの2
つかつかとナナシが歩み寄ってくる。
全身に、威圧と険悪のオーラを漲らせて。
まぁなんだ。美形ってのは、笑った時だけではなく怒った時にもその真価を発揮するのだと、つくづく感心した。迫力が半端ない。めっちゃこえぇ……。
ハッとして振り向けば、同じく慄然としているアイリーンさんとレイフさんの姿が。
そういえば、彼ら、ナナシとは初対面だった。
初対面ならにこやかに挨拶しなければならないものを、ナナシの馬鹿、なに射殺しそうな目つきで凄んでいるんだ。
そこは普通、
「うちのユイカがいつもお世話になっています」
とか、
「そそっかしいけどやる気だけはあります。よろしくお願いします」
とか、むしろ保護者がへりくだる場面だろう。……なぜ睨む!
「ナナシ! 迎えに来てくれた、ありがと! 見て見て、新しいエプロン」
殊更に能天気に、私は言った。
エプロンの裾を摘まみ、くるりと一回転して見せた。
恥ずかしいよ、こんちくしょう。お遊戯会のヒラヒラ衣装を初めて着た幼稚園児でもあるまいし。
私がここまで体を張って、あんたの愛想のない顔をフォローしてあげているんだから、笑え、ナナシ! 初対面はとにかく第一印象が肝心だ。爽やかにスマイルだ!
「……脱げ。帰るぞ」
氷点下にも届きそうな声音で、ナナシが答えた。
……めげるもんか。
「あっ。えーと。紹介する。こっちがナナシ。私の家主。命の恩人。凄い腕の薬師。偉大な魔法使い」
思いつく限り誉めたけど、ナナシの表情筋は弛まない。いつぞやの仮面に逆戻りしたのかと疑いたくなるほどだ。
「こっちは、瑠璃の人魚亭の店長さん、アイリーンさん。傭兵のレイフさん」
「……傭兵」
「うん。アパートの隣、勧めてくれた傭兵さん。とっても仲良し」
「……」
ナナシの眉間のしわが更に深くなった。
私の必死のフォローがまるで効いていない。なんでだ……。
「え、ええと。初めまして。……よろしく?」
レイフさんが、大人らしい余裕を見せて、手を差し出す。さすがにそれを無視するような無礼はせず、ナナシもひとまず当たり障りなく握手を返した。
が、ほっとしたのも束の間。
アイリーンさんを振り返り、
「あんたがユイカに妙な事ばかり吹き込む店長か。彼女はまだ言葉が完全じゃないんだ。嘘と適当なら他でやってくれ」
ああー……もう駄目だ。これで周辺温度が更に間違いなく五度は下がった。
私の大事な雇い主さまに何てこと言うんだろう、この魔術師は。働く前から私をクビにする気か!
「帰るぞ、ユイカ。もたもたするな」
私の心の悲鳴など意に介さず、ぐ、と私の首根っこを掴むと、あろうことか、ナナシはそのまま私を引きずって歩き始めた。
「ちょ、ナナシ。待った! 待ったっ」
「待たん。いいから来い」
呆気に取られているアイリーンさんとレイフさんに、辛うじて手を振り返し、私は魔術師に強制連行されて帰宅したのだった……。
「ナナシの馬鹿ぁっ!」
「馬鹿はお前だ」
「アイリーンさん、雇い主。レイフさん、友達! ひどい言葉、許せない!」
「瑠璃の人魚亭は酒場だ! 俺は食堂での日中の労働は許可したが、酒場に行っていいとは一言も言っていない!」
「酒場違う。食事するところ! それに昼!」
家に帰るなり、この世界に来てから多分初めて、ナナシと派手に言い争った。
近くにあった分厚い本を掴んでぶん投げたくらいだから、私的には、史上稀に見る大喧嘩だったように思う。今まで、ちょっとした口での諍いはあっても、手が出たことはなかった。
まぁ、一方的にカッカしているのは私だけで、ナナシはいたって冷静だ。当たり前だけど、すこぶる一般人の私に暴力に訴えるなんて真似もない。
ただ、私が投げた本を、ひょいと首だけ傾けて避けた。なにその余裕のかわし方。腹立つ……!
「酒場なんて、夕方五時以降に一番忙しくなるんだ。そんな時間帯にノコノコ帰れるわけがないだろ。あっという間に帰宅が深夜になるに決まっている。お前は、若い女があの界隈を夜中に一人でうろつく事の怖さを、全く分かっていない!」
「深夜ならない。怖くない。ナナシのわからずや!」
あの綺麗なコバルトブルーのエプロンを制服とする店が、ナナシの言うような、いかがわしい深夜営業の盛り場のはずがない。
アイリーンさんだって、ユイカには昼を頼むね、と明言していた。更には、レイフさんが、人魚亭の比較的近くに住んでいることから、遅くなったら何時でも送迎役を引き受けるよ、と有り難い協力まで申し出てくれている。
これでどうやったら危険な目に遭うというんだ!?
心配を通り越して、もはやただの束縛だ。
「ナナシ横暴! 大っ嫌い!」
面と布の時には、いつも遠巻きに見守ってくれているような、不思議な距離感と大きな安心感だけがあった。
でも、人間になった途端、その絶妙な間合いは消え、近すぎて、安堵感は何だか妙な緊張感に取って代わってしまった。
ナナシは、以前のように布に包むような感覚で、人の体で抱き締めてくれているのだろうけど、正直、私の方はとても以前と同じ気分ではいられない。
男の人の強い腕の力は、少し怖い。ドキドキしすぎて、心臓に悪い。
よし見慣れた! と何度自分に言い聞かせても、気を抜くと見惚れずにはいられないその顔に、ソワソワとたちまち落ち着きを失くしてしまう。
二年間をかけてゆっくりと築いてきたナナシとの関係が、変化する。
私は、まだ、心のどこかで……それを受け入れきれていない。
「こ、こんな事で喧嘩、するなら! 前の方が良かった……!」
絶対に言ってはいけない一言を言った、という自覚はあった。
慌てて自分の口を片手で塞いだけど、一度音になって出てしまった言葉は、もう取り消せない。
「……そうだな」
ナナシが呟いた。
「今の俺より、前のナナシの方がいいって、はっきり言っていたもんな」
違うよ、と言う前に、ナナシが私に背を向けた。
慄いていた唇がようやく動いて、ごめんなさい! を私が叫んだ時には、彼の姿は、もう部屋の中から消えていた。
その日の夜、ナナシは自分の部屋から出てこなかった。
いや、一度だけ出てきた。ふらりと外出し、すぐにまた戻って来た。外の屋台で出来あいの料理を適当に買ったみたいで、テーブルの上にすぐに食べられる物が並んでいた。
とことん生活力のない私が飢え死にしないよう、こんな時まで気を使ってくれている。
そして、こんな時でも、私はしっかりと腹が減った。
情けないのか、切ないのか、ぼろぼろ泣きながら、ナナシが買ってくれた夕食を一人で食べた。
屋台の料理はどれも塩が効きすぎていて、何だか妙にしょっぱい味がした……。




