その掌に増えるもの1
アルバイトをしよう、と思った。
ナナシが体を取り戻す前は、正直、あまり考えていなかった。まずはとにかく言葉を覚えるのが先決だったし、二年で別れなければならないこの世界に、馴染み過ぎるのも怖かった。
ラスタは交易都市なので、人種は多種多様だが、そのラスタの中にあっても、バリバリの日本人である私の顔立ちは少しばかり異質で、目立ちたくないのもあった。
人買いにでも攫われたら大変だ、外をあまりウロチョロするな、というナナシの教えを、私は律儀に守っていたわけである。
「でもね。もうここにいる、決めたから! だから、働く!」
ナナシは初め渋面を作っていたが、私の意志が覆りそうもないことを見て取ると、諦めたように好きにしろと言ってくれた。
暗くなる前に帰宅できる仕事にしろ、とか、もし遅くなったら迎えに行くから一人で動くな、とか、変な奴にナンパされても付いて行くな、とか、お前どこのお父さんだよ! と突っ込みどころ満載な注意事項をこれでもかと並べ立ててくれたが、とにかく了承だけはもぎ取ったわけである。
「ナナシ。私、食堂の仕事がんばる!」
「別に頑張らんでいい。お前一人くらい、十分に養える」
「お金もらう。ナナシに何か買うよ。何いい?」
「いらん」
「イラン? なにそれ。どういう物?」
「このあほ娘! 必要ない、ということだ。お前、やっぱり、まだ仕事は無理……!」
「平気。できるできる。ナナシ、何もいらない? 私をプレゼントだよ」
「……っ!」
私たちは、朝、いつものようにテーブルを囲んで朝食をつついていた。
ルルエ、という果実(アセロラっぽい、甘酸っぱくて美味しい木の実)を絞って作ったジュースを口に流し込んでいたナナシは、「私をプレゼント」の一言に激しくむせた。
「げほっ!」
吹き出さなかったのは偉い。吹き出したら、私の食べかけの朝食にまで被害が及ぶところだった。
それにしても、何を焦っているのだろう。例の食堂のお姉さんに習った慣用表現を使っただけなのだが。男に何か欲しい物はないかと聞いて、何もないと言われたら、こう返すんだよ! と。
ちなみに意味は、「せっかくの私の好意なんだから、素直に受け取ってよ!」のはずである。
……何か間違っているだろうか。
「ちょっと待て……。いやいい」
少し呼吸が落ち着いてきたところで、ナナシが聞いた。
「……ところで、どこで働く気だ」
「瑠璃の人魚亭。お姉さん、給仕係、欲しいって」
「馬鹿! あそこは食堂じゃなくて酒場だ!」
「昼、食堂。夜、酒場。知っているよ。私は昼。平気だよ」
「あそこは昼夜問わず冒険者や貿易船の水夫が溜まるところだ。ガラが悪いのしかいないから止めておけ!」
「ん? そんな事ないよ。たまに行くもの。お客さんと私、仲良し」
「たまに行っていたのか、お前……!」
「うん。最近はね。傭兵のお兄さんに『この街に定住することにした。ユイカ、一緒に住まないか』って言ってもらったんだよ。とても仲良し」
「……!!」
再び、ナナシが喉にご飯を詰まらせた。今度は液体じゃなくて固体だから、本当に苦しそうだ。
それにしても、誰もナナシのご飯なんか盗らないんだから、もっとゆっくり落ち着いて食べればいいのに。いつか盛大に吐き出しそうで心配だ。
「そ、ごほっ。それで、お前、なんて」
「ナナシ家、居候中。アパートの部屋、間に合っていますって」
「……は?」
「お兄さんのアパートの隣の部屋、まだ空いてる。隣に変な奴、うるさい奴、来たら嫌だから、ユイカどうだって」
「そういう意味か……」
「? 変なナナシ」
「変なのはお前だ!」
その日、ナナシは、何故かずっと不機嫌だった。
白面黒布だった時より、彼、少し短気になった気がする。
体を取り戻すと、やはり何かとストレスが溜まるものなのかもしれない。ナナシのために一生懸命働いて、少しでもその負担を減らしてあげよう……新たな決意を胸に秘め、私はぐっと握り拳を固めたのだった。
「ナナシ、楽しみにしていてね。私をプレゼント!」
「だからその使い方は絶対に間違っている……!」
瑠璃の人魚亭は、穏やかな海を防波堤越しに臨む海岸線沿い、小さな店がひしめき合う賑やかな通りのど真ん中に、妙に目立つ風体で佇んでいた。
近くまで来ると、やたらと色気を振りまくボンきゅっボンな人魚の立て看板が、出迎えてくれる。
この店を贔屓にしているそれなりに高名な画家が、わざわざ無料で描いてくれたものだという。外せに外せなくて放置しているうちに、すっかりトレードマークになってしまった。
その人魚看板の遥か上、建物の屋根近くに、もう一つ、横長の大きな垂れ幕が掲げられている。
垂れ幕は文字だけだ。以前ナナシに訳してもらったが、
「勇気を出して入りましょう。怪しい店ではありません」
と、ちょっと店主のセンスを疑う内容が書かれてあった。
「いらっしゃーい」
その人魚亭の店主、私に色々な言葉を教えてくれる金髪美女、アイリーンさんは二十七歳。十五でデキ婚、十六で出産、十七で離婚、を経験した、色々な意味で凄い人だ。
ちなみにその時のお子さん、エリアスくんはもう十一歳。俺が生活管理をしてやらないと、この母親はゴミに埋もれてのたれ死ぬ、と、働く母を主に家事面で支える、素敵な孝行息子である。
「ほほー。じゃあ、家主の許可は取れたんだね。うちとしては、今すぐにでも来てもらいたいくらいだから、何時でもいいよ。何なら明日からでも。商売繁盛、忙しくてねぇ」
とりあえずお客として来店し、働きたい旨を告げると、アイリーンさんは二つ返事で了承してくれた。
もう私用のエプロン(人魚亭の制服)も用意してあるのだという。
見たい! と言うと、姉さんはウキウキした様子で店の奥に取りに行き、すぐに戻ってきて、ビラッとそれを私の前に広げた。綺麗なコバルトブルーのエプロンで、胸の部分には私の名前が白く刺繍してあった。
「おおー! 可愛い!」
「エプロンごときでそんなに喜んでくれて嬉しいよ」
時刻はちょうど午後二時半。昼食には遅く、夕食には早すぎる。店はほとんど休憩中で、店内には私と姉さんしかいなかった。
だから私は椅子から立ち上がり、遠慮なく私専用エプロンを試着した。真正面から見ると、ちょっとワンピースっぽい作りになっていて、後ろで縛る部分は紐ではなくリボンだった。
この辺のセンスは、さすがアイリーンさん、女の人だなぁ、と感心する。
後ろ手で蝶々結びをやると、案の定、蝶はくるんと縦を向いた。
「あんた下手だねぇ」
けらけらとアイリーンさんが笑ったとき、ドアが開き、吊り下げている鈴がカランと涼しい音色を立てた。
「あー。腹減った」
間もなく三時にもなろうかとこの変な時間帯に現れたのは、傭兵のレイフさん。
隣の部屋に引っ越してこないか? と誘ってくれた、あの気の良いお兄さんだ。
年は、多分、アイリーンさんと同じか少し下くらい。髪も瞳もくっきりと漆黒で、ナナシよりも更に長身。ナナシはとにかく綺麗な顔だけど、レイフさんは、精悍とか剽悍とかそんな感じだ。
「お。ユイカじゃないか。いよいよ仕事始めたのか?」
ものの見事に縦縛りになった私の腰のリボンを見て、
「不器用だなぁ、ユイカ」
すいすいと直してくれた。仕事柄、色々な縛り方をマスターしているらしい。さすが傭兵。
「あ」
再び、ドアの鈴が鳴った。
振り向くと、秀麗な顔にめいっぱい不機嫌を張り付けて、なぜかナナシが立っていた。
「……何をしている」
エプロンのリボン、直してもらっただけなんだけど。
なんでそんなに怖い顔をしているのか……不思議だった。
やきもち?




