願いの珠
約束の二年目の日がやってきた。
私が意気揚々と階下の食堂に降りてゆくと、ナナシがいつものように朝食の支度をしていた。
ナナシは顔はおろか体もない謎の生命体(生命体かどうかも怪しいが)なので、食事の必要はない。睡眠の必要もない。風呂も入らないし、トイレも行かない。
でも、ナナシは、それが欠かせない私のために、色々用意してくれる。
ナナシは掃除が下手なので、館の清掃は私が主に担当していた。代わりと言っては何だが、彼は美味しい朝ごはんと晩ごはんを作ってくれる。
特に卵料理が絶品だ。
自分には全くいらないものなのに……。
私は料理するナナシのそばをいつもウロウロする。ナナシは味見が出来ないので、私がいると助かると言ってくれる。私は味見と称して、毎日ありがたくつまみ食いをさせてもらっていた。
幸せだ。……でも、こんな幸せも、今日が最後。
「ナナシ、今日の朝ごはん、すごく豪華」
『最後だからな』
ナナシは、私に、帰るな、とは言わない。
術が失敗したから帰れない、と嘘を吐いてくれることもない。
ナナシは私がいなくなっても寂しくないのだろうか。……寂しくないのだろうな。
私ってば、二年前から、一方的に迷惑かけているだけだもんね……。
ナナシは、本当は、魔法の薬屋なんてする必要がないのだ。ナナシにとって金は無用の長物だった。なぜなら彼は、衣も、食も、住すらいらないのだから。
ナナシは、ナナシだけであらゆる場所に存在できる。
ナナシが一生懸命働いているのは、字も読めない、言葉も片言の私を養うためだ。
私のために食料を買い、服を買う。
私のために、あまり見られたくないその姿を人目にさらす……。
『食が進まないようだな。腹でも痛いのか?』
誰が腹痛だ。
乙女心の機微のわからない朴念仁め。
「腹元気。……食う!」
本当に腹を壊しそうなほどガッツリ食べた。
皿の上がみるみる空になって行くのを、ナナシは嬉しそうに(のっぺらぼうだけど)見つめていた(たぶん見つめていたと思う)。
真昼の月が、太陽から少し離れた位置に浮かび上がる。
この月は二年に一度しか現れない。私がこちらの世界に落ちた時も空にあった。
澄み切った秋の青をそこだけ真円に切り取って、白くほのかに燐光を放つ。目を凝らしても、餅をつくウサギは見えなかった。ただ、その模様は、私が元いた世界のそれによく似ていた。
単なる偶然かも知れないが、こちらの世界でも、月は「ルナ」と言った。
『送還は、お前が召喚された場所で行う。その方がズレが少なくて済むはずだ』
ナナシに連れられ、私は薬草の森に入った。
二年前、学校帰りだった私は、気が付いたらこの森の奥深くにいた。
誰かに目的をもって呼ばれたのか、それとも何かの偶然で彷徨いこんでしまったのかは、わからない。
制服姿で、鞄を胸に抱えて、道なき道を歩いていた。煌々と明るい真昼の月を見上げていると、急に気力が萎えてしまって、その場にしゃがみ込んでおいおいと泣いた。
(大丈夫か?)
現れたナナシの姿に、そりゃあもう卒倒しそうなほど驚いた。
やばい。これはどう見ても人間じゃない。ここが異世界ならきっと魔物に違いない。いやいや死神かも知れない。
逃げるしかないだろう、これは!
私は駆けた。お世辞にも俊足とは言えない私だったが、人生でこんなに一生懸命足を動かした事はないというくらい、とにかく真剣に逃げた。
すうーっと、音もなくナナシが追いかけて来る。
ちょっと待て。すげー怖いんだけど!
私はすぐに捕まった。あの黒い布がいきなりバサッと被さってきて、恐怖のあまり気絶した。
次に目が覚めたら古い洋館の寝台の中だった。お盆の上に、湯気の立つ食事を乗せて、ナナシがとてつもなく遠慮がちに部屋の中に入ってきた。
(気分はどうだ?)
(ぎゃーっ! 見逃して殺さないで食べないでっ! 美味しくないです、私!)
(……よくわからんが元気なようだな)
まぁ、何だ。今振り返れば色気の無い出会いだった。
初めは怖かったけど、すぐに、ナナシがいい奴だということはわかった。
私を捕まえた時、ナナシには手が無かった。でも、起きた時、盆を支えるそれがあった。
だいぶ後になってから、私のためにナナシが手袋を作ったことを知った。確かに、料理も掃除も、他の何をするにも、腕は無いよりはあった方がいいに決まっている。
(ナナシ。私がいなくなったら、また腕取っちゃうの?)
目的地に着いた。
何の変哲もない草地に、奇妙に折れ曲がった細い樹木が、一本ひょろりと生えていた。
その木の下に私を立たせ、ナナシが言った。
『ずっと黙っていて、悪かった。俺がお前を呼んだんだ。二年間も……俺がお前の時間を無駄にした』
必ず元の世界に……、それだけではない、絶対に元の時間軸に戻してやる、と、ナナシは誓った。
私に罵倒され、泣き喚かれ、大嫌いだと告げられるのを覚悟しているかのように、白い面はやや俯いていた。
「なんで私、呼んだの? 何のため?」
私は聞いた。
自分でも驚くほど冷静な声だった。自分でも驚くほど、腹が立っていなかった。
なぁんだ、そうか。だから森の中ですぐにナナシに会ったのか、と、全く違うことを考える余裕すらあった。
『心のある使役獣を作ろうとした。そうしたら……なぜか、お前が現れた。言葉も通じないし、これは使役獣じゃない。何か大変な失敗をしたんだと、すぐにわかった。だが、真昼の月が次に現れるのは二年後で、それまではどうしようもなかった……』
真昼の月は、要は魔術師の魔力を増幅させる作用があるらしい。
二年前は、使役獣を作るどころか、それよりも遥かに難度の高い異界人の召還をしてしまったというわけだ。心のある、という条件は、ある意味そのまま正しく反映されたとも言えるが。
こんな主義主張のうるさい小娘、呼んでしまったナナシもさぞや扱いに苦労したに違いない。
なのに、二年間、腕まで生やして甲斐甲斐しく世話をしてくれた……。
怒るべきなのか、泣くべきなのか、それとも許すべきなのか。
わからぬままに、私はナナシの次の言葉を待った。
『よく聞いてくれ。機会は一度しかない。これから俺が願いの珠を作るから、その珠を持って、自分の元いた世界に戻りたいと強く思うんだ。願いの珠は、一度だけ、その名の通りあらゆる願いを叶えてくれる』
「願いの珠?」
なんだそれは。初めて聞いた。
あらゆる願いを叶える珠? この魔法のしょぼい世界に、よくそんな大層な物が存在しているものだ。
それにしても、作るって? 作れるのか、そんな神がかった領域の物を、ナナシが。
使役獣を生み出そうとして見事に失敗して、厄介な異世界人なんて呼び込んでしまった、この中途半端な魔術師が。
「そんな凄い物作れる。ナナシ、それで使役獣を作るのが良かった。そしたら私、呼ばれなかった」
『それは』
「ナナシ。何か変。何か隠している。願いの珠、どうやって作る? 二年前、作らなかったの、何故?」
『それは……』
「ナナシ! ちゃんと説明!」
『……』
重い重い沈黙の後、ナナシがようやく口を開いた。
『願いの珠は、死期を迎えていない魔術師の命と魔力を結晶化したものなんだ。だから凄い力がある。でも、魔術師の命そのものだから……自分自身は、使えない。願いの珠になった瞬間に、その魔術師は、この世から存在が消えるんだ』




