聖樹ルルノエ2
以前の古びた洋館から人魚亭までは、辻馬車を二つ乗り継いで約一時間半。辻馬車は一時間に一本しか通らないので、それを運悪く逃したら徒歩で帰ることになる。
そんな事が度々起こると、ひ弱な現代っ子の私の足はたちまち悲鳴を上げた。
が、今は、見かねたナナシが街中に引っ越してくれたおかげで、十五分も歩けばすぐにバイト先に到着する。流血沙汰になった靴擦れが完治して以後、情けない怪我には見舞われていない。
ふんふんと鼻歌なんて歌いながら店の前まで来ると、中年の男性が、入り口付近で入ろうかどうか迷っているところに出くわした。
お客さんだ! と、私はすかさず営業スマイルを浮かべ、
「いらっしゃいませ! 中へどうぞ。お席までご案内します」
うん。我ながら完璧な発音だ。接待トークだけは淀みなく言えるように、アイリーンさんからきっちり手ほどきを受けた甲斐があったというもの。
男性は驚いたように私の顔を見て、二、三度瞬きを繰り返した後、破顔した。
「これはこれは……可愛らしい人魚姫だな」
うわああ。カッコいい。アカデミーの映画俳優も真っ青だよ。口元や顎の無精髭すら良い味を出している。
こんな臭い台詞吐いても全然違和感ないのが凄い。むしろ似合っている。サマになっている。ファンになりそうだ。……いや私は決してオジサン趣味ではない。
彼を席に案内し、メニュー表を渡した。俳優よりも格好いいナイスミドルは、アイリーンさん手書きの文字を目で追いながら、
「やはり無い、か」
ぽつりと呟いた。
「裏料理のこと? 知ってる?」
人魚亭には、裏メニュー、なる超常連さんしか知らない幻の料理がある。
大体は時期ものだ。たまにしか獲れない魚とか、運良く手に入った遠国の野菜とか、そういう珍しい食材を使ったアイリーンさんのオリジナルレシピである。
「十年ぶりになるからね、私がここに来たのは。店の主も変わっているし。……ああ、そういえば、自己紹介がまだだったね。私の名はジーク。この一帯で……まぁ事業をさせてもらっている者だ」
「ジギョウ」
商人さんか。にしてはえらく貫録があるけれど。
……ああ、そうか。この人も例の領主への献上品を持って来たのか。ジークさんなら、剣とか盾とか鎧とか、重厚感のある貴重品の扱いもぴったりだ。
「十年ぶり。……十年前の料理? どんな?」
「スープなんだ。何でも、特殊なハーブを使っているとかで。味ももちろん美味いんだが、それ以上に元気が出るというか……」
丁度その頃、ジークさんは病気を患っていて、療養も兼ねて半年ほどこのラスタにいた。その間、人魚亭の女将と親しくなり、女将がジークさんのために作ってくれたのが特別なハーブを使ったスープだった。
足しげく通ってスープを飲んでいるうちに、結構重かったはずの病気が、あら不思議、見事に完治したそうなのだ。
主治医などは自分の治療が適切だったとふんぞり返っていたらしいが、ジークさんには確信があった。自分の病気を治してくれたのは、特製スープと、先の女将の温かい笑顔だと。
「忙しくて、ここ十年足が遠のいているうちに、あの女将が亡くなったとようやく知ってね。相変わらず繁盛しているみたいだから、今の女将もやり手なのだろうが……」
アイリーンさんがこの店を前の女将さんから譲られたのは、三年前。
旦那さんも子供もいなかった前女将は、アイリーンさんを娘のように、アイリーンさんの息子のエリアス君を孫のように可愛がってくれたという。
アイリーンさんに秘伝のレシピと店そのものを残して、彼女は病気で逝ってしまった。血の繋がった家族こそいなかったけど、葬儀にはお客さんが大勢つめかけて、そりゃあもう有名人が亡くなった時のように大変な騒ぎになったらしい。
「素晴らしい人だったよ、マーサは」
女将の名はマーサ。
亡くなってから三年経った今でも、こんな風に慕われる……素敵な人。
ジークさんが帰った後、マーサ女将の幻のスープについてアイリーンさんに訪ねると、彼女は分厚い紙束を店の奥から持って来た。そのうちの一枚を抜き取って私の前に差し出す。
鉛筆で丁寧にイラストが描かれてあった。現代の物のようにカラフルではないけれど、赤や緑など幾つか色分けされてあって、ふんわりと温かい印象を受ける。
絵の右側には、細かい文字が記されていた。たぶん料理の手順だろう。
マーサ女将のレシピ帳。
「これだね。ジーク専用って書いてある。マーサ母さんは誰にでも優しい人だったけど、ジークさんはちょっと特別だったのかもしれないねぇ」
人気食堂の女将と、旅の商人ジークさん。
スープを出して、それを飲んで、テーブルを挟んでほんの少しやり取りするだけの、本当に、本当に、ささやかな関係。
でも、マーサさんはジークさんのために特製レシピを作り、ジークさんは亡くなったと聞いてもなお、マーサさん所縁の地をこうしてわざわざ訪れた。
何だろう……何か切ないような。
不思議な気持ち。
「マーサ女将のスープ、もう一度作れない?」
「うーん……。材料がね。メインのこのハーブ」
アイリーンさんが、小さな紫色の実を付けた植物の絵を指した。赤鉛筆と青鉛筆をうまい具合に重ねて塗って、ちゃんと紫とわかる色が付いていた。
「このハーブ……アガスタ。元はサリアって国で栽培されていたらしいんだけど。そのサリアがもう無いんだ。だから今は簡単には手に入らないんだよ」
「サリア行ったら、その辺、生えてない?」
国が無くなっても、地面さえあれば草なんて幾らでも生えてきそうなものだけど。
そんな雑草みたいなしぶとい植物じゃなくて、温室育ちの蘭のようにデリケートな種類なのだろうか。
「サリアは戦争とかじゃなくて、大寒波で滅んだ国なんだよ。元々極北にあったのに、更に気温が下がって人が住めなくなってね。誰も近寄らないから、そこにハーブが残っているかどうかなんてわからないんだよ」
大寒波で滅んだ国、サリア。
そこの希少なハーブ、アガスタ。
稀に別の土地に生息しているのが発見されるので、完全に流通が途絶えたわけではないけれど、量が安定しないのでメニューからは消えた。
いずれにせよアガスタは夏至の時期のみに採れる特殊なハーブなので、真冬の今、手に入れる手段は無いということだった。
(マーサ女将のスープ、飲ませてあげたかったな)
ジークさんは何かと忙しいようで、この街に滞在できるのも二か月が限度なのだと言う。
二か月経っても、季節はようやく春になるやならず。
夏至は……遠い。




