聖樹ルルノエ1
ルルノエ、という聖なる木が、庭の片隅に生えている。
聖なる木、と呼ばれる所以は、空中に漂い出ている魔力を取り込み蓄える、その特殊な性質にある。古くから、葉はお守りに、切り倒した幹は教会や神殿の建材に、珍重されてきた。
育てるのがとてつもなく難しい植物で、現在のところ人工的に増やす手段は無い。深山に生息しているものを偶然探り当てるしかなく、一部の好事家の間では狂信的な崇拝の的となっている。
そんな大層なご神木とは露知らず、うちのクロお気に入りのキャットタワーと化しているのは、誰にも言えない秘密だ。
まぁ、私としても、せっかくスクスク育ってくれている樹を、容赦なく切り倒して偉い人の家の柱にするのは忍びない。ジャングルのようなうちの庭で良ければ、枯れるまでそこに根付いて、末永く猫と戯れてやってくれと願うばかりである。
なのに。
タチの悪い大商人が、街中にぽつんと生える我が家のルルノエに目を付けた。
以前、オルドスを逃がした上にしばらく放置していた、あの金持ちの好事家だ。名をブルノーという。
服装がキラキラしいのは勿論、掛けている眼鏡の縁まで豪華絢爛な、いかにも悪徳商人っぽい風体の持ち主である。
彼の後ろに二人ガタイの良いおじさんが控えているが、そりゃこれだけ宝石をぶら提げていればボディーガードも必要になるだろう。あるいは背中を刺される覚えが十や二十ではきかないのかもしれない。
「ルルノエで椅子とテーブルを作って、領主様に寄贈したいと思ってね。譲ってくれるね? もちろん、相応の礼はさせてもらうよ」
作るのは、柱ではなく、イスとテーブルだった。
霊験あらたかなご神木を、なんてありがたみの無い物に利用する気だろう、このオッサン。教会に贈る神様の像でも彫るっていうのなら、少しは考えてやらんでもないのに。
「申し訳ないが、あの木はうちの猫が気に入っている。他を当たってくれ」
しれっ、とナナシは答えた。
ブルノー――こいつは呼び捨てでいいと、私の中で扱いは決まった――は、目を剥いた。まさか猫のために申し出を断られるとは予想もしていなかったのだろう。
「りょ、領主様に進呈する食卓だぞ!?」
「そんな会ったこともない領主と、うちの大事な猫とを比べられても。猫の都合を優先するに決まっている」
ナナシにとっては、領主の権威よりも猫の機嫌の方が重要らしい。
確かにクロはルルノエの樹が大好きだった。まるで子猫が母猫にするように、枝葉に顔を埋めてよく休んでいる。
「帰れ。仕事の邪魔だ」
ナナシは好事家を居間には通さず、玄関先でやり取りしていた。
ぱちん、と、指を鳴らす。同時に玄関扉が独りでに開いた。ただのこけおどしだけど、凡人のブルノーには十分な脅威になったようだった。ひっと喉の奥で悲鳴を上げて、兎のように飛び跳ねる。
偉そうにふんぞり返っているわりには、意外と肝っ玉の小さい人間なのかもしれない。
「ま、まだ話は終わっとらんよ」
好事家は二人の用心棒に目配せした。
レスラーのような男たちと比べると、ナナシは随分と華奢に見える。けれど、彼は魔法使い。腕力なんて遥かに凌ぐ恐るべき力で、身の程知らずな侵入者どもをいとも容易に追い払うことが出来る。
二人の用心棒は、何を思ったか、突然ブルノーの肩を掴んだ。
「帰りましょう」
両側から、大人が子供の脇を抱えるような格好で、男たちは主人を持ち上げた。くるりと回れ右をしたかと思うと、そのまますたすたと出て行った。
扉を閉じた後も、離せ、何をする、と悪態をつくブルノーの声が聞こえてきたが、ナナシは気に留める様子もなく、埋もれ木のドアに鍵をかけた。
「ナナシ、今、何したの?」
「あの男、随分と人望ないな。普通なら掛からないような弱い暗示なのに」
「暗示? 魔法したの? ナナシ動いてないのにどうやって」
「あの程度、呪文も印も必要ない。目を合わせればそれで終わる」
「目を……」
ナナシは魔術師。
その力は計り知れない。
精神以上に膨大な魔力を蓄えた肉体を取り戻したせいか、時々、私すら想像の及ばないことをする。
「でもナナシ。あんまりそれ良くない」
「えっ?」
「みんな驚く。ナナシを怖がる。それは嫌。私が嫌」
ナナシは少し目を見開き、じっと私を見た。すぐに視線を逸らし、口元に手をやって、しばし考え込んだ。やがて、ぽつりと呟いた。
「わかった……。気を付ける」
強すぎるというのも考えものだ。
息をするより自然に……彼は魔法を使えてしまうのだろう。
大商人ブルノーが、ルルノエを欲しがった理由が判明した。
毎年この時期、一帯を治めるフォルシアン伯爵が、視察のためラスタを訪れる。避寒も兼ねているため滞在期間は二か月と長く、領主様に気に入られたい商人たちが、あの手この手でライバルを出し抜こうとしのぎを削るという訳である。
「ブルノーはやり手だからね。忌々しいが、今年の御用商人の座も奴のものだろうな」
人魚亭にて、日替わり定食をつつきながら愚痴をこぼしているのは、クロードさんだ。聞くところによると、去年も一昨年もその前も、ブルノーに御用商人の鑑札を持って行かれたのだという。
フォルシアン伯はお祭り好きな性格の持ち主で、毎年、ラスタ滞在の際に商人の目利き大会を開く。優勝賞品は、一年間有効の御用商人の鑑札だ。
大会の内容はいたってシンプル。伯爵様が目から鱗の珍品を期日までに納品すればいい。
(それでルルノエかぁ……)
美食家でもあるというフォルシアン伯。より一層美味しく食事を頂けるように、ブルノーは聖なる木でテーブルと椅子を作りたいらしい。
そのテーブルの上に置いたら料理がグレードアップするとか、特殊な能力でも付くのだろうか……原材料にルルノエを使うと。
ナナシに聞くと、ルルノエの神秘は大地に根を下ろしていないと発現しないということだった。つまり、切り倒してしまえばただの木材にすぎないと。
(人はいつも自分に都合よく解釈する。ルルノエは、自然のまま置いておかなければ意味が無い)
悪徳商人が、このまま大人しく引き下がってくれるとは思えない。
クロが母猫のように懐いている樹を、何とか守ってやりたいけれど……。
「僕もフォルシアン伯に希少な品を納品したいんだけどね。一体何を納めれば喜んで頂けるものやら」
クロードさんが、本日三回目になる溜息を吐いた。幸運もたちまち逃げて行きそうな雰囲気だ。
珍品コレクターのご機嫌取りも大変そうだなぁ、と、彼にしては珍しく食べ残しが多い定食を片付けながら、私はそんな事を考えた。
 




