半魔獣オルドス1
新しい家に引っ越してから、三日目、回覧板が回ってきた。
もう町内会の一員として認められたのかと思ったら、定期的に回されている広報の類ではなく、急遽発行している臨時のお知らせ便だった。
とりあえず読んでみると、
「ナナシ、獰猛です。犬みたい注意」
「俺の名前と、回覧の中でたまたまわかった単語を不用意に繋げるな。俺が獰猛な犬みたいに聞こえる」
相変わらず言語能力の低い私の代わりに、ナナシが内容を教えてくれた。
「猛犬注意……か」
この付近に犬好きな好事家の商人がおり、そこで飼われていたオルドス、という種類の大型犬が逃げ出した。
好事家が言うには、
「うちの犬たちはよく訓練されているし、オルドスは救助犬も出来るくらい賢い犬だから、その辺をうろついていても問題ない」
とのことだったが、昨日、そんな悠長に構えてはいられなくなる事件が発生した。
逃げたオルドスが、深夜、人を襲ったのである。
襲われたのは、酒場帰りの若い冒険者だった。いきなり背後から飛びつかれ、地面に押し倒されたのだという。
もう駄目だと観念したが、オルドスは青年の体に牙を突き立てることなく、彼が持っていた大きな鞄を咥えて駆け去った。
鞄の中には酒場でテイクアウトした料理の包みが入っており、腹を減らした犬は、固くて不味そうな男の肉よりも味付けされた骨付きチキンを選び、彼は難を逃れたというわけである。
「怖い、ナナシ。気を付けなきゃ」
「犬ね……。自衛団がそのうち捕まえるだろ」
ラスタの街には警察と自衛隊を足して割ったような組織、自衛団なるものが存在する。
この地の領主から直々に交易都市の治安維持を任された彼らは、ラスタの若者たちの憧れの職業だ。入るのはなかなか厳しく、試験を受けて倍率三十倍を超える難関を突破するか、冒険者などで名を馳せて推薦を受けるしかない。
ちなみにレイフさんがこの自衛団に最近入団した。
傭兵としてどんな凄い活躍をしたのかと目を輝かせて問えば、
「いや、コネで」
と、さらっと返された。レイフさんのお父さんの弟の奥さんの従兄弟の……とにかく遠縁にそれなりの身分の人がいるらしい。
コネだったのか。彼は絶対に世を忍ぶ凄腕の勇者に違いないと睨んでいたのだが……無念である。
「レイフさんも、犬捕まえる、しているのかな?」
「善良な市民のために、せいぜい身を粉にして働いてもらおう。犬の捕り物なんて平和で結構なことじゃないか」
焼きすぎて焦げたベーコンを、ナナシが口に放り込んだ。
ばり、ばり、と、煎餅を齧っているような音がする。
今日の朝食の支度をしたのは私だ。ナナシに教わった通りに作ったはずなのに、どうしてこんなにも仕上がりに差が出てしまうのだろう。……カリカリベーコンを目指した覚えは断じてない。
「ナナシ。無理に食べない。お腹壊す」
「この程度で壊すほどヤワな腹はしていない」
結局、ナナシは私が作った朝ご飯を綺麗に平らげた。
この時のオムレツに卵の殻が混ざっていたことを私が知ったのは、今より一か月以上も後のことである。
さてさて。オルドスとは果たしてどういう犬なのだろう。
大型犬で救助犬だ。そう聞いて真っ先に思い浮かぶのは、やはりラブラド―ル・レトリバーかセントバーナードだった。というより、さほど犬に詳しくない私は、それ以外の条件に合う犬種がよくわからないのである。
猫なら、それはもう待った無しに愛らしい姿が脳裏を駆け巡るのだが。
チンチラペルシャとか、ノルウェージャンフォレストキャットとか、メインクーンとか、ラグドールとか。
ああ……。あのタヌキのごとき丸くてモコモコした魅惑のボディを思う存分まさぐり倒したい。地面にもしこれらの猫が落ちていたら、問答無用で誘拐してしまいかねない私である。
……違った。
今は犬の話題だった。
オルドスがどういう犬か見てみたい、と言うと、ナナシが図書館に連れて行ってくれた。
少し海から離れた内陸側に、街で最も大きな図書館がある。付近には学校や領主から派遣された官僚たちの役所もある。
海沿いはいかにも自由で奔放でやや粗雑にすら見えるのに、さすがに重要建物が集まるこの辺りは上品な雰囲気だ。道路にゴミも落ちていないし、これでもかと言うくらいクビレを強調した人魚の立て看板もない。
図書館に入ると、ナナシは迷うことなく図鑑類の書架に向かった。どこに何が置いてあるか、全て把握しているようだった。
「お前に会う前はよく来ていた」
暇だから時間を潰していたわけではない。
体は消えてしまったのに意識だけが残って漂っているという異様な状況を打破するために、自分なりに調べていたのだという。
人前に出ると周りを脅えさせるばかりなので、自然、一人で過ごす時間が長くなる。閉館後の図書館は、潜むには格好の場所だった……魔術師は、少し寂しげに見える顔で、呟いた。
「ナナシ」
「ん?」
「これから私いるよ。ずっと。アイリーンさんもレイフさんも海坊主さんも。クロードさんも」
「余計なものが多分に含まれているような気がするが……まぁいいか」
ナナシが動物図鑑を持ってきてくれた。私が元いた世界のような写真はないけど、代わりに、かなり精巧に描かれた絵が掲載されていた。
オルドスは全身が灰色で、まさに狼としか表現しようのない姿かたちをしていた。なかなか精悍な良い面構えをしている。
うん。狼だと思うと怖いので、シベリアンハスキーと見なすことにしよう。可愛いじゃないか。
「体長は約三エクル(=メートル)」
「はぇ?」
体長三メートル?
おいおい。
虎かよ。
何そのサイズ。あり得ないんだけど。
これじゃあ、向こうに殺意が無くても、じゃれつかれただけでか弱い人間様なんて押し倒されて終わりじゃないか。甘噛みなんてされた日には目も当てられない。
可愛いシベリアンハスキーは、私の中で、瞬く間にでかい猛獣へと変化した。
レイフさんが自衛団に入ったことだし、善良な一市民としてオルドス探しに協力するつもりだったけど、無理せず遠巻きに応援しようと決意した。
三メートルの虎もどきオオカミ、間違っても出会いたくない相手である。
全二話です。
 




