赤い華の幻惑4(※ナナシ)
イグ・ヴィルス・フロウ、という名の植物がある。
自然の物は、半世紀も前に絶滅したとされている。だが、各国の魔術師が研究用にと保管した種がまだ無数に残されており、それが知識の無い者の手に渡ったとき、思わぬ悲劇を巻き起こすことでよく知られていた。
イグの種は、動物の死骸という苗床がなければ発芽しない。だから、イグの花は、強烈な幻覚作用のある臭いを発し、苗床になりそうな大型の動物をおびき寄せる。幻覚作用のある甘い匂いは同時に毒性も帯び、獲物は眠ったまま花畑に埋もれて新たな肥やしとなるわけである。
この物騒な植物が、滅びた後も熱心に研究されているのは、不老長寿の妙薬の原材料の一つであるなどと信じられているからだ。
無論、根拠など何もないただの与太話である。不老長寿どころか花も茎も根も極めて毒性が強いので、下手に薬にしようものなら逆に寿命を縮めかねない。
だが、人は、不老と長寿の夢をおいそれと捨てられない。特に権力者はその傾向が強い。
身の程知らずな野望を抱いて、どこぞの王が、貴族が、イグ・ヴィルス・フロウを信じられないような高値で買う。一攫千金を狙って、半端な薬師や魔術師が、危険な花の栽培に着手する。
何も知らない、何の力もない、ユイカのような一般人が巻き込まれることだって、あり得るというのに。
実際、彼女は、花の毒素にあてられて、意識が混濁するほどのひどい発作に見舞われた。
「不愉快だ。……下級魔術師ごときが」
人食い館の地下、緋色の絨毯のほぼ真ん中で、俺は二番目の苗床になったであろう人間の白骨死体に吐き捨てた。
すぐ傍らに羊の骨も転がっている。たぶん、この魔術師は何らかの手段で手に入れた種を、羊を使って発芽させたのだろう。
だが、花の幻覚作用の強さを甘く見すぎて、早々に自分の体を肥料に差し出す羽目になったのだ。
その後も、花は枯れることなく甘い芳香を放ち続け、誘い出された獲物らを喰らい、しぶとく、逞しく、増え続けた……。
「確かに人食い館だな」
まるで抗議するかのように、花の群がざわめいた。地面を這っていた蔓が不自然に蠢いたかと思うと、明らかに拘束の意思を持って足首に巻き付いた。どうやら、俺を新しい苗床にしたいらしい。
目の付け所は悪くはないが。
「やめとけ。俺なんか養分にしたら、一分ももたずに枯れるぞ」
絡みついてくる鬱陶しい蔦は無視して、俺は歩いた。向かう先には、壁の真ん中で熱と光を無遠慮に発する奇妙な石がある。
これはイグの栽培にはよく使われる魔法石だ。とりたてて珍しい物ではない。イグは常に二十五度を超える暖かい気候の中でしか生息できないため、育てたいなら温度管理は必須である。
腕を伸ばし、魔法石に触れた。抵抗するように石は一瞬高い熱を発したが、それだけだった。ひびが入り、亀裂が走り、ついには砕けた。
一気に暗くなったので、今度は俺が代わりに炎を起こした。後腐れなく、花ごと全て焼き払うつもりだった。
上の家屋も、もしかしたら付近の家々も、丸ごと灰になるかもしれないが……知ったことか。
ユイカを傷つけ、俺を怒らせた。辺りを火の海にする理由は、それだけでルシュメアには十分だった。
ルシュメア?
違うだろう。俺は。
俺は、もう。
その名は。
今の、俺の、名前は……。
(なんて書いてあるんだ?)
あの日。
雪の結晶のペンダントを渡した時。
ユイカが大慌てで腕で隠した一枚の落書き。書かれてあるのは、俺には文字にすら見えない、不思議な図形。あるいは記号。
それがなぜか気になって、翌日、ユイカに尋ねた。ユイカが向こうの世界に繋がる物を求めているような気がして、不安だったのかもしれない。
俺のために帰還を諦めた……異界の娘。
(いや、あのね。ナナシの名前にね、漢字つけるならどれかなって。ナナシだけなら短いから、ついでに名字も付けちゃえ、みたいな。名字はいちいち考えるのも大変だから、私のでいいや、みたいな。ああもう、何言ってんの私)
両腕をぱたぱたと動かして、ユイカは早口に異界の言葉を喋った。彼女は極端に焦ると、こんな風にニホンゴとやらを怒涛のように並べ立てることがある。
(頼むからこっちの言葉で喋ってくれ……。さっぱりわからん)
(何でもない。気にしない!)
ユイカの落書きは、彼女が読み書きの練習に使っている児童用の本の間に挟まっていた。
紙は綺麗に四つ折りされている。ユイカが本の上に伏せをする前に、俺は素早くそれを抜き取った。
(何だよ。いいから白状しろ)
(わ。わ。返して!)
(教えてくれたら返す)
小柄で非力なユイカが、自力で俺から紙切れを取り返すのは難しい。観念したように彼女は叫んだ。
(ナナシの名前、書いただけ。向こうの言葉で!)
(俺の名前?)
(サガエナナシって)
(サガエナナシ?)
(うん)
(寒河江七司)
名無し、じゃあんまりだから。
意味は、七つを司るなんて、どうかなぁ?
七って、私の住んでいた場所では、特別な数字なんだよ。海だって七つだしね! 七福神なんて神様だっているくらいだしね!
貧相な語彙で、ユイカは一生懸命に説明していた。正直、半分くらいしか言わんとしている内容はわからなかったが。
わからないなりに、彼女が自分のことを気にかけてくれているのは伝わってきて、何だか無性に嬉しかった……変な響きの名だと思わないでもなかったが。
ナナシでいい。ずっとこのまま。
ナナシでいたい。ユイカの隣に立つに相応しい、ごく普通の人間の男として……生きていきたい。
掌の上に湧いていた白い炎を、俺は力を入れて握り潰した。
焼き払う代わりに、花を全て氷漬けにした。とりあえず、これでイグ・ヴィルス・フロウのおぞましい特性は完全に封じた。明日、人足を雇って一気に外に運び出せばいい。
消し炭にするつもりだった遺体も……弔ってやろう。花の一輪くらいは手向けて。
手間はかかるが仕方ない。
誰も、何も、傷つけないですむ方法を、きっとユイカは望むだろうから。
「クロードと言ったか。ユイカにこの物騒な家を押し付けた張本人」
奴にだけは、多少仕置きをくれてやらなければ気が済まない。
おそらく背後に魔術師がいることを知った上で、ユイカを騒動に巻き込んだのだ。館の謎を解き、原因を取り除き、あわよくば高値取引の材料にしてしまおうとの魂胆が見え透いている。
そして、忌々しいことにその通りになってしまった。人食い花は死滅し、家は立地条件の良い優良物件へと変化した。地下に死体が幾つか転がっているが、こんな物は処分してしまえば何の害もない。
(俺ではなく、ユイカを利用した。……相応の代価は払ってもらうぞ)
イグの群れの中から、俺は何粒かの種を取り出した。少し力を入れれば簡単に砕けるほどに一度凍結させてしまったので、種はもう完全に死んでいる。発芽することはない。
それを承知の上で、俺は、イグ・ヴィルス・フロウの七つの種を買わないかとクロードに持ちかけた。
不老長寿の妙薬の原材料が莫大な額で王侯貴族に売れることを知っていた地主の息子は、案の定、尾を振る犬のごとくこの商談に飛びついた。
「しかし、提示する額を現金で用意するには、少し時間が……。いや、必ず用意はしますので、他の奴に売らないで下さいよ。イグ・ヴィルス・フロウなんて、五十年も前に絶滅した花の種、滅多に手に入らないからですね」
「欲しがる人間は、他に幾らでもいるんだ。こっちも長くは待てなくてね。物々交換でも構わんが」
「物々交換?」
「ちょうど家を探している。人食い屋敷と交換でもいいが」
「い、いいんですか!?」
「ああ。原因の黴はもう排除したし」
「しかし、地下から死体が出てきた家ですが……本当に?」
「俺はその手のことは気にしないので、お構いなく」
七つの死んだ種と引き換えに、こうして、新しい家を手に入れた。
詐欺?
いや。俺は種が生きているなんて一言も言っていない。奴も聞かなかった。そして、発芽しないとはいえ、あれは間違いなくイグ・ヴィルス・フロウだ。
そう……嘘は吐いていない。
強いて言うなら、詳細を確認しなかったクロードが、ほんの少し愚かだっただけ。
「ナナシ! この家、地下室から死体出たって本当!?」
「ああ。五体ほど。羊も入れて六つ」
「いやぁーっ! やっぱりアレ見間違いじゃなかった! 出たよ、ナナシ! 出た!」
「何が」
「ふわふわ飛んで! ぼうっと白くて! 火の玉!」
「……人魂、と言いたいんだな」
「そう。人魂! 出た!」
「気のせいか見間違いだ」
「ちょっとくらい信じてよ!」
ユイカは幽霊の類が苦手だったらしい。引っ越してからしばらくの間、壁に人面の染みが浮かんでいるとか、夜中に背後に誰かの気配を感じたとか、大騒ぎしていた。
馬鹿らしいとは思うが、怯えている様子が何だか妙に可愛いかったので、あえて放っておくことにした。
……風呂に入っている間、怖いから扉の外で待っていてくれと言われた時には、若干張り倒してやりたくなったが。
俺は恐ろしくないのか。
危険じゃないのか。
ここまで信頼されているってのも……違う意味で自分が不憫だ。
「ナナシ、いる? そこで待っていてね!」
そして、言われるままに風呂場の外で番兵をしている自分が……ものすごく嫌だ。
「……あと十分で終わらせろ」
「ええー! 今髪洗っているところ! 無理!」
「四の五の言うな。早くしろ。このまま入るぞ!」
「ナナシのすけべ!」
「どこで覚えた、その言葉! またアイリーンか!」
「ううん。レイフさん。ナナシに変な事されそうになったら、こう言えって」
「……」
傭兵に一瞬本気で殺意を抱いた俺を、一体誰が咎めることが出来ようか……。
「赤い華の幻惑」終了です。
便利な場所に引っ越しました。……若干お化け屋敷ですが。




