赤い華の幻惑2
高いお金をアイリーンさんに渡そうとしたわりには、クロードさんは急に別の商談が入ったとかで、家人に呼ばれるままそちらへ行ってしまった。
ただ、去り際、件の屋敷の鍵を私に貸してくれた。自由に見物して良いと言う。
いずれナナシに相談はするつもりではいるが、その前に私の方で一通り確認するのは良案に思えた。
あまりに問題の多い物件であれば、ナナシの手を煩わせるまでもなく、私の一存で却下すればいい。
立地条件だけはすこぶる良い人食い屋敷は、人魚亭から十五分も歩かないうちに、到着した。
周りの家々より、ここは少しだけ地面が高い。そのせいか、振り返ると建物と建物の間に綺麗な水平線が見えた。
二階に上がれば、海と空の境界が、もっと長く見渡せるだろう。
絵葉書を切り取ったような贅沢な景色に、どきどきした。いわく付きの化け物屋敷の調査に来たはずなのに、建物に近付く自分の足が自然と弾んでしまう。
門を抜け、広い庭を横切る石畳の上を歩いた。石畳はよく見るとモザイク模様になっており、こんな所まで手の込んだ演出に自然と頬が緩んでくる。
「なんでこれが人食い屋敷なんだろ……」
大きな玄関扉を見上げた。
それは不思議な緑色をしていた。安っぽいペンキを塗ったわけではない。使用している木材そのものが何とも言えない渋い苔色なのだ。
埋もれ木、という特殊な木を使っているのだと、大分後になってからナナシから聞いた。
なぜナナシにそんな事がわかるのか不思議だったが、木は、気の遠くなるような年月湖の泥の底に沈んでいたようだと言っていた。
扉を、ゆっくりと押し開ける。
途端、もわ、と変な臭いが吹き付けてきて、思わず顔をそむけた。
(な、なに?)
よろめきながら数歩下がる。空咳を何度もして、呼吸を整えた。たすき掛けにしていた小さなポーチから、ハンカチを取り出した。それで口と鼻を押さえ、中を覗き込む。
今度は臭気は感じなかった。
「気のせいかな……」
屋敷内は薄暗かった。ほとんどの鎧戸がきっちりと下ろされている。
玄関ホールの吹き抜けの上方に大きな嵌め殺しの窓があり、そこから降り注いでくる光のおかげで、物を見るのに不足はなかった。
(わぁ……)
視界に飛び込んできた、厳かな光景。
豪華絢爛ではないが、何というか……、品が良い。思いのほか高級な備え付けの家具と、三年程度では褪せない壁の純白の漆喰のせいかもしれない。
どれもこれもうっすらと埃を被ってはいるが、少し手を加えればすぐにも住めそうな状態だった。
衝撃だったのは、台所と浴室の設備が明らかに今住んでいる洋館より小奇麗だったことである。
次の住処になるかもしれない館が拾い物だったことを喜ぶべきか、三年も廃墟だった屋敷に負けた我が家の惨状を嘆くべきか、複雑な心境だ。
ああ、それにしても、暑い……。
(え……? 暑い?)
そんな馬鹿な。今は十二月だ。本格的な冬の季節。
ラスタ周辺は温暖な気候だが、それでも真冬は十度近くまで気温が下がる。……暑いはずがない。
歩き回っているうちに、じんわりと首筋や背中が汗ばんできた。仕方なく上着を脱いだ。手扇でパタパタと顔を煽ぐ。その風もまた生温かった。
(なにこれ……)
足元だ。足元から熱が這い上がってくる。一瞬、床暖房なんてリッチね、と呑気なことを考えた。
……あり得ないだろう。廃墟で床暖設備だけまともに動いているなんて、その方が不気味だ。
(電気もないのに)
電気はないが、魔法はある。これが、この世界の厄介なところ。
電気ならコンセントを引き抜けばそれで動作は止まるけど、魔法は……私がここの住人ではないからかもしれないが……常に理解の蚊帳の外にある。
(熱源は何? どこ?)
再び、甘い匂いを感じた。
靴の爪先が無意識にそちらを向いた。熟れすぎて腐りかけた果実のような芳香が、今度は、臭いとは思わなかった。
屋敷の中で、一つだけ、趣の違う扉を見つけた。他は全て流線模様の美しい木製なのに、それだけが武骨な鉄製だった。
鉄の扉には錠も掛かっておらず、触れただけで簡単に開いた。
扉の先は、階段になっていた。
一歩降りるごとに、熱と匂いが強くなる。こめかみから流れた汗が頬を伝い、顎から落ちた。
ぼんやりとした意識の片隅で、ここは危ない、引き返せ、と何かが警告を発していた。
わかっているのに、足が止まらない。自ら火に飛び込む虫のように……。いや、火ではなく、例えるなら大きく口を開けた食虫植物か。
(駄目)
階段が終わった。唐突に、石造りの背景が剥き出しの土に変わった。屋敷の地下の一部が、洞窟になっていたのだ。
(行っちゃ駄目……!)
洞窟はさほど広くない。完全に自然の産物かと言えばそうでもなく、所々、人の手による補強の跡があった。
その補強跡の残る壁に、赤い石が埋め込まれている。それが熱と光を放っていた。光は、何かの心臓のように、どくん、どくん、と、規則正しく脈打っていた。
足元には、真っ赤に咲き乱れる花、花、花……。こちらの植物には大分詳しくなった私だけど、種類はわからなかった。……初めて見る。甘い芳香は、この花から漂っていた。
ああ……いい香り。
犬のようにひくひくと鼻を動かした。
埋もれて寝てしまいたい。
気持ち良さそう……。
面倒な事も、嫌な事も、全部忘れて、二度と目が覚めることのない幸せな微睡みの中に、深く……。
胸元に、ちりりと痛みを感じた。すぐに、痛みは冷たさへと変化した。
「わ。わ。何? 冷たっ」
ナナシからもらった雪の結晶を、服の下から慌てて引っ張り出す。途端、ドライアイスのような白い煙が飛散した。
これは冷たいはず! というか、凍傷になっちゃうよ!
一気に目が覚めた。頭がまともに働き出すと、自分の置かれている状況の異様さに、遅まきながら衝撃を受けた。
脈打つ宝石。赤い花。絡みつく熱。吐き気を催すほどに甘い……甘すぎる腐臭。
「ナナシーっ!」
私は一目散に逃げ出した。
階段を駆け上がり、鉄の扉を閉めた。全力で廊下を走り、人食い館から飛び出した。
屋敷から十分に離れてから、ペンダントを確認すると、もう冷気は消えていた。凍傷になっているに違いないと確信していた胸元に、なぜか、それらしい痕跡は見当たらなかった。
(どういうこと?)
とりあえず、あの屋敷には二度と近付かない方が良いだろう。
家賃がタダでも御免こうむる。いや、むしろ、金を積んでもらっても関わり合いになりたくない……!
明日、朝一番で、クロードさんに鍵を返そう。
地下室に人知れず放置されている薄気味悪い石と花についても、詳細を教えてあげないと……。
「もう食べないのか?」
いつものように、ナナシと過ごす夕食の一時。
今日の晩御飯は、挽肉と野菜のみじん切りを一緒に捏ねて、蒸し焼きにしたものだ。ハンバーグにちょっと似ている。
二個でも三個でもいけるくらい大好きなメニューのはずなのに……半分以上残してしまった。いつもなら唾液が止まらなくなる肉の匂いに、胸のむかつきすら覚える。
「ごめんなさい。何だか、食欲が」
けほん、と咳が出た。
二度、三度、と続けて出た。食事中だから我慢しなきゃ、と、思えば思うほど、咳は止まらなくなった。
椅子から立ち上がり、食卓に背を向けた。それが悪かった。急に立ち上がったせいだろうか。ぐらり、と視界が回った。
(あれ?)
体を支えられる物が、近くにない。蹲り、口を両手で覆った。咳が出続ける。満足に呼吸が出来ず、生理的な涙がぽろぽろと零れた。
「ユイカ!?」
ナナシが呼んでいる。
後片付け、しなきゃ。食器をシンクに持って行って、洗って、拭いて。
ナナシがご飯を作ってくれて、私が洗い物をする。別に約束をしたわけでもないけれど、二年前から続く……二人の習慣。
(苦しい。息が)
ああ、あの家はやっぱり人食い館だったんだ。
そう思った。
クロードさんも言っていたじゃないか。変死や失踪が後を絶たないと。
食われる、って、こういう事。
知らせなきゃ。ナナシに。クロードさんに。近付かないで。あの家。近づけないで。誰も。みんな……。
「心配するな。……今は眠れ」
ひやりとした指先が、額に触れた。
体を蝕む熱を吸い取ってくれるような、心地良い感触。
ナナシが心配するなと言うのなら、きっと大丈夫なのだろう。
ふわりと、気が楽になった。
ちょっと無責任だけど、ナナシに全部任せよう。
私も手伝わなきゃいけないのはわかるけど。
ごめんね。
なぜか、体が、動かない……。
「すぐ戻る」
ああ、行っちゃう。気配が遠ざかる。
具合が悪いせいで気持ちが挫けているのかもしれない。掠れた声で、行かないで、と懇願した。必死に伸ばした手を、黒い手袋をはめた誰かの手が、握り返してくれた。
表情の無い白い面が、薄闇の中、じっと私を見下ろしていた。
「ナナシ……?」
壊れたはずのあのお面。
砕けて消えたはずなのに……いつ直したのだろう。
まぁいいか。
妙に懐かしく感じる黒い布に包まれると、ひどく安堵して、私は今度こそ完全に意識を手放した。




