赤い華の幻惑1
呼び出しの鈴が揺れないように、そろりそろりと玄関の扉を開けた。
ものすごく気を付けたつもりだったけど、ちりん、と小さく涼しげな音が鳴り響く。
ああ、まずいなぁ、と思っていると、案の定、耳聡く音を聞きつけたナナシが廊下の向こうに現れた。
こうなっては仕方ない。
私は、靴の中で恐らく流血沙汰になっているであろう靴擦れの痛みを押し隠し、
「ただいま帰った!」
と元気よく宣言した。
「ご飯まで時間ある。ちょっと部屋で休む」
てくてくと何気ない風を装って、歩き始める。
ああ、足が痛い。じくじくする。とにかく早く靴と靴下を脱ぎたい。一刻も早く部屋に駆け込みたいのに、ナナシの視線が突き刺さってきて、それも難しい。
と。がしっ、と肩を掴まれた。
「……足。どうした?」
「へ? あ。うん。靴擦れ」
「靴擦れ?」
「うん。ちょっと歩きすぎた。……うひゃあ!」
ふわ、と体が浮いた。
おおぅ。これが俗に言うお姫様抱っこというやつか。少女マンガにも恋愛ノベルにもかなりの高頻度で出てくる破壊力満点の大技の一つだが、経験したのは無論私は初めてである。
ビジュアル的に申し分のないナナシがやると、たいそう様になるが、抱えられているのが姫君ではなく凡人の私という点が全くもって残念だ。……せっかくの麗しさも大減点。
ってか。
「ぎゃー! 落ちる落ちる落ちる! マジ怖い! そんなサービスいらんから、肩でも貸して。……ってか、救急箱っ! その方がありがたいし!」
思わず日本語で叫んでしまった。
日本語なのに、なぜかナナシには微妙なニュアンスが伝わったらしい。
「お前、本っ当に、空気ってものを読まないよな」
こ憎たらしい捨て台詞を吐きつつも、ナナシは薬箱を取りに行ってくれた。
いやもう、照れくさくて悶えそうだった、なんて、言えるわけないじゃないか。ナナシを別にすれば、高校の学校祭の仮装行列でしか男子と手を繋いだことがない私に、あまりハイレベルな反応を求めないで欲しい。
うん。若いはずなのに何だか干上がっているな、私。サガエユイカ。
しかしこれが自分だ。認めるしかあるまい……。
そういえば、こちらの世界で、ナナシ以外にはまだ名乗ったこともなかった……私の本名。
寒河江唯花。
東北に偶然にも同じ名称の市があるが、特に私と関わりはない。いや、遡れば先祖の誰かがそこの出身という可能性は無きにしも非ずだが、そもそも辿れる家系図なんてあるはずもない庶民なので、結局のところ、よくわからなかった。
「いたた……」
部屋に戻り、ベッドに腰掛けると、早速靴を放り投げた。靴下を脱ぐときには、一緒に皮膚まで剥がしているような激痛と、ぺりぺりという音に、思わず側にあった枕に八つ当たりしたくなった。
ちょうど室内に入ってきたナナシに、
「無理やり剥がす奴があるか、この馬鹿!」
と、ぺしりと頭を平手打ちされた。消毒液でふやかしてからなら、特に痛みもなくスルッと取れたらしい。姫抱っこより、むしろその情報を先に与えて欲しかった……。
「引っ越すか……」
ただの靴擦れと言うにはあまりにも痛々しい私の傷口を手当てしながら、ナナシが呟いた。
「人魚亭がお前の足には遠すぎるんだ。俺も最近受注が増えて市街に行く機会が増えたし……引っ越そう」
この鶴の一声で、急遽、引っ越しが決まった。
せっかくなので、レイフさんの隣に住もうかと提案すると、絶対に駄目だ! と物凄い剣幕で拒否された。
「あいつは好かん」
ナナシとレイフさん、どうしてこんなに仲が悪いんだろう。
いや、不仲と言うよりは、ナナシがそれこそ蛇蝎のごとく一方的にレイフさんを嫌っている、といった方が近い状況だが。
二人ともイケメンで、後衛の魔術師と前衛の剣士、相性は抜群に良いはずなのに。
私的には、見目美しい二人が連れだって歩く様子など是非とも拝見してみたいのだが……無念である。
「奴の近くに引っ越すって言うなら、この話は終わりにするからな。よく覚えておけ、ユイカ」
二人が華麗に共闘するシーンは、当分見られそうにない。
瑠璃の人魚亭には、毎日さまざまな人が訪れる。
付近を拠点にする冒険者と貿易船の水夫が多いが、素朴なおふくろの味と豊富なメニューに惹かれて、わざわざ遠くから足を運ぶ常連もいる。
その中の一人に、クロード、という名の有力地主の息子がいた。
年齢は三十歳くらい。もしかするともっと若いのかもしれないが、貫録というか迫力があるので、そう見える。
眼鏡が似合うインテリ系の鋭い美形だ。ブラウンの髪にグレーの瞳。顔はインテリメガネなのに、妙にガタイの良い御人でもある。人生の青い時期に、何かスポーツでもやっていたのかもしれない。
「今は使っていない洋館があってね」
と、クロードさんは言った。
古いが造りはしっかりとして、三年前までは人が住んでいたので、設備も比較的新しい。よければそこを格安で貸すよ、と。
地図を確認すると、立地条件は今住んでいる所と比べ物にならないくらい良かった。それなのに、提示された家賃は安いほど。
確かに素晴らしい物件なのだが……何というか、怪しい。
広くて場所も良くてそれなりに新しくて、なおかつ安いなんて、おかしいじゃないか。
そこで、わーい! 素敵なお家を紹介してくれてありがとう! などと、一も二もなく飛びつくほど、私はおめでたい頭の持ち主ではなかった。
「……変」
「え? 何がだい?」
「良いお家なのに、安い、変。……何かある。何?」
「うん。まぁ、少しはね。……というか、ユイカ。君、鈍そうなのに妙なところだけ鋭いね」
クロードさんは空になった食器をテーブルの端に押しのけた。それを下げるのはホールスタッフたる私の役目なのだが、彼に手首を掴まれ、同じ席に着くよう指示された。
これは商談なんだ、と偉そうに宣言し、クロードさんは、アイリーンさんに私の日当を上回るお金を手渡した。
「二、三時間、ユイカを借りるよ。どうせ店は暇そうだし、構わないだろう?」
「うちは女の子を貸し出すなんていかがわしい接待は、全く! 全然! 少しも! やっていないんだけどね」
アイリーンさんがお金を突っ返しながら、憤然と抗議する。
やっちゃって下さい、姉さん。この人なら殴ってもきっと許されます。
「商談さ、これは。僕とユイカのね。雇い主として融通をきかせて欲しいね。引っ越し先を探しているユイカにとっても悪い話じゃない。……ただ一つを除いては、あの屋敷は間違いなく優良物件なんだから」
どうする? と、姉さんが私を見た。
女の子の貸し出し云々はともかく、優良物件の見学は私もやや興味があった。
「ほんと、クロードの旦那は口が上手いよね。……まぁ、確かに今は暇だし。ユイカ、今日はもう上がっていいよ」
「え」
アイリーンさんお得意の、早あがりの許可が出た。これで早く上がった分の給料を引かれることもないのだから、太っ腹な店主だ。
本人は性格が適当なだけ、と言っているが、従業員に決して無理をさせない姉さんは、現代でも良い社長とか上司になれるだろうなぁ、としみじみ思う。
それにしても。
「ただ一つを除いて、って……、どういう意味?」
うん、大したことはないんだよ、とクロードさんは微笑んだ。
……メガネ美形の作り笑いって、どうしてこんなに胡散臭く見えて仕方ないのだろう。
「人食いの館、なんて言われていてね、あの屋敷。どういう訳か借り手が長く居つかないんだよ。変死したり、失踪したり。でも、本当に、それを除いては良い家なんだ」
待て待て待て。その一つがあるだけで、十分にヤバイ物件のような気がするのだが。
人食いの館って。
魔法も魔物もしっかりと存在するこの世界で言われたら、冗談に聞こえないから困ったものだ。




