ひとひらの雪
ラスタは、柔らかな日差しと海から吹く南風に守られた街。真冬でも気温が十度を下回ることは滅多にない。
向こうの世界にいる時、私は北国の出身だった。それこそ真冬になれば町中で煌めくダイヤモンドダストを見られるほどに、寒く雪深い土地に住んでいた。
ラスタの街に来て何が嬉しかったかと言えば、雪かきをしないでいいことだ。つるつるに滑る道路を、おっかなびっくり歩かなくて済むことだ。
終の棲家なら南国に限る!
そう思いながら、二つの冬を超えた。でも、三つ目の冬が迫る今、ふと、無性に、あの白く冷たい結晶が恋しくなるときがある。
雪は、こちらの世界で何というのだろう。
雪ではなく雨の降る夜、音のある静寂に包まれた部屋の片隅で、私はナナシに話しかけた。
「ナナシ。『雪』はここで何ていうの?」
「ユキ?」
「うん。白くて、冷たくて。冬に降るの。寒いところたくさん」
「ああ……雪か」
「ニルン?」
「そう。雪。もっと北に行けば、幾らでも見られるぞ。俺はあえて見たいとは思わんが」
「ナナシも、やっぱり雪よけるの、嫌?」
「雪よける? ……雪かきか。そんな事したことない。雪が降ると、寒いし景色が単調になるから、好きじゃないだけだ」
「ナナシ、北国の人?」
「……一応」
北国出身のくせに、雪かきをしたことがないなんて、どんなブルジョアだ。人でも雇ってやらせていたのか。
うちはマメに掻かないと、それこそ冬アルプスの山岳救助隊のごとくズボズボと埋まりながら歩く羽目になるので、問答無用で除雪は日課だった。
「寒いけど、雪かき嫌だけど、なんかね、時々見たくなる。……雪」
ふわりふわりと、静かに舞い降りてくるもの。
気が付いたときには厚く積もり、春まで大地を覆い隠すもの。
厄介なはずなのに、心の奥底に刻み込まれて消えない光景……単色の世界。
染み一つない純白の雪原。そこに最初に足を踏み入れるワクワク感。足を取られながら、駆けて、駆けて、……そして倒れて。
倒れて一度雪まみれになれば、後はどうでもよくなる。だから転がる。
不思議と、そういう時の雪は、冷たくない。
「見たい、ねぇ」
雪の多い土地は、その雪解け水のおかげで水源が確保できるから、水不足になりにくくて良いが。
ナナシの感想は現実的で夢がない。
「雪が好きとか見たいなんて、お前はやっぱり若いんだよ」
見た目は私と一つ二つしか違わないナナシだが、それに三十年の白面黒布時代を上乗せすれば、御年びっくりの五十二歳。
発想がオジサンくさいのはそのせいか。今だって、ソファの上に寝転がりながら、足元に毛織の膝掛けなんてかけているし。
「ナナシ」
「何だ」
「おっさんくさい」
「……どこで覚えた。そのオッサンという言葉」
「アイリーンさん」
「またあいつか!」
「他にも覚えた言葉ある」
「言わんでいい」
「えっと」
口にした途端、顔から火が出そうだったので、ぺこりとお辞儀をするふりをして、下を向いた。
「貴方が好きです。私を彼女にして下さい」
「……」
ドキドキしながら待ったけど、
「……ああ、はいはい。わかった。またあのろくでもない女店主に入れ知恵されたんだな。さすがにいい加減慣れた」
ナナシからは、実に素気ない反応が返ってきただけだった。
笑えない冗談言ってないで、さっさと寝ろ!
そう言って、ソファから立ち上がり、読みかけの本を持って、魔術師はこちらを一瞥することもなく部屋から出て行った。
(むぅ。一世一代の告白だったのに。アイリーンさんにちゃんと言葉も習って)
一緒に住んで、向かい合ってご飯を食べて、家事を分担してこなして。
時には手を繋いだり、(元の世界の友情ハグと同じ意味だろうけど)抱き合ったりまでしているのに、恋人どころか未満にもなれない……。
もしかして、私、拾ったペットと同じ扱い!?
報われないなぁ、と、閉じたドアを眺めやりながら、そっと溜息を吐き出した。
それから数日、何事もなく経過した。
いつものように朝起きて、ご飯を食べて、バイトに出かける。アイリーンさんの自由裁量により、午後一時で帰ってくることもあれば、四時までみっちり働くこともあった。
帰ると、だいたい家にはナナシがいる。こんな広い屋敷にもかかわらず、いつも二人揃って居間に入り浸り、付かず離れず過ごしていた。
最近、絵本を使って文字の勉強も始めた。二十歳からの異世界言語習得だ。当たり前だけど、ただ日常会話を喋るより、読んだり書いたりする方がはるかに難しい。
自分の名前の綴りも覚えた。
ナナシの名前も。
ナナシ、だけだと、何だか短くて寂しいので、その前に自分の名字を書き足してみた。
なかなか語呂がいいかも……とニヤけているうちに、急に恥ずかしくなってきた。
阿呆だよ、自分……!
「ユイカ」
思いのほか近くで聞こえた声に、悪戯を見つかった子供のように、椅子の上で飛び跳ねた。すぐ傍らにナナシが立っている。
テーブルの上に広げた紙を、私は両腕で慌てて隠した。あからさまに怪しい私の行動に、ナナシは訝しげに首を捻りつつも、とりあえず追及しないでいてくれた。
「な、なに? ナナシ」
「……やる」
ひどく無造作に突き出した彼の手にぶら下がっているのは、ペンダント。
銀製だろうか。真新しい鎖は白光りして滑らかだ。私は装飾品の価値なんてよくわからないけど、特に先端の飾りは綺麗だと思った。
「あ……」
雪の結晶。
間違いない。雪の結晶だ。六角形で、無色透明で、どんな腕の良い職人だってこんな複雑な模様は造り出せないだろうという……完璧なるシンメトリー。
金属ではない。硝子でもない。一体、何の材質で出来ているのだろう。本当に、空から落ちてきた雪のかけらを、そのまま留めて固めたよう。
迂闊に触れたら、解けて、崩れて、消えてしまいそうなほど。
「これは壊れないし、融けることもない」
私の心の内を見透かしたように、ナナシが言った。
ナナシの手から、私の手へと、ペンダントが渡される。硝子細工よりも脆く見えたそれは、予想に反して硬く、また、肌を刺すような冷たさもなかった。
「身に着ける物だから、冷たくなり過ぎないように調整しておいた」
そう言うってことは、本来は、これは冷たい物なのか。
本物の雪の結晶のように……。
「誕生日おめでとう。二十歳だな」
今日は、十二月十日。この世界に来てから、三度目の誕生日。
一回目は、来たばかりで、何が何だかわからないうちに過ぎていた。
二回目は、もう一年以上経ってしまったと、思い出せばかえって悲しい気持ちになりそうだったので、考えないようにした。
そして、三回目。
アルバイトを始めたおかげで、私も少し蓄えが出来た。
ナナシからもらったおこずかいではなく、自分の力で稼いだお金。
これを使って、今度こそナナシに何かプレゼントしよう。日頃の感謝。誕生日の祝い。異世界迷い込み記念。何でもいい。理由なんて、幾らでも。
今てのひらの中にある雪の結晶のように、こんなすごい物は、あげられそうもないけれど。
「ありがと、ナナシ。嬉しい……」
「安物だけどな。ただの銀だし。ペンダントトップに至っては、元手もかかっていない」
「ナナシに私も何か買う。何いい?」
「別に何も」
「駄目。絶対にあげるの!」
「……俺の欲しいものは、今のお前じゃ多分無理だ」
「そんな事ない。頑張ってお金溜める。何年かかっても」
「お金、ねぇ……」
ナナシが笑った。
何故か、少し、皮肉っぽい笑い方に見えた。
「そんなズレたことを言っているうちは、俺の欲しいものなんてわかるはずがないな」
「なに欲しいの? 教えて?」
「教えない」
「えー!」
自分で考えろ、と、額を軽く小突かれた。
考えてもわからないから聞いているのに。どうしてこういう時だけ妙に意地悪というか、意地っ張りなんだろう。
素直にあれが欲しい、と教えてくれれば、たとえそれが隣国にしか売っていないような珍品でも、買いに走るのに。
「ねぇ、ナナシ。いつかナナシの故郷、見てみたい」
「何もないところだぞ。森と、湖と。やたらと長い冬と、すぐに過ぎてしまう夏と。……それしかない」
「森と湖! 凄いよ。十分だよ」
「……そうかね」
「そうだよ!」
初めて聞いた。
ナナシの古里。
森と湖と。暗く厳しい冬と。その後に訪れる、短いけれど眩しい夏と。
「もしかして、この結晶……」
森と湖の国に降ったもの?
本当に、本物の、ひとひらの雪?
「さぁ……」
それについては、ナナシは何も言わない。
おやすみ、と呟いて、部屋を後にした。
解けることのない雪の結晶が、きらりと手の中で瞬いた。
誕生日プレゼントの、ちょっと不思議な雪の結晶のお話。
 




