日録の断編
手を握られていた。握る手は幼い子供ように小さな手だった。自分の手に視線を落とすと、同じようなか細い手だ。不思議なことに手を握られているという感触は無い。
これは夢……なのだろうか。
『氷雨!もっと急いでよ!』
聞き覚えのある声に、はっとして顔を上げる。
手を掴んでいたのは、藍だった。
昔の思い出なのだろうか?その姿は何年も前の記憶に居る藍そのもので、機嫌が悪そうに頬を膨らませている。
『なんで走らなきゃいけないのさ。誰にも知られてないんでしょ?』
幼い俺が彼女に文句を垂れる。
『むーっ!いいから来るのッ!!』
『うわっ!?』
引きずられるように藍に連れていかれる。
流れてゆく景色を目の端に捉えながら走ると、大きな自然公園へと入っていた。そのまま遊歩道から外れ、木々の間を駆け抜ける。
『藍!どこまで行く気なんだよ!?』
息を切らせながら問い掛ける俺に、藍は『もうすぐ!』とだけ返し、走り続ける。
やがて、大きな大木だらけだった景色が一気に開けた。
大きな湖。
澄んだ湖がそこにはあった。遠浅に張った湖の水が本当に青く見えるようだ。地面には黄土色の石が転がり、湖の透き通るような青を際立たせている。ここの周り一面を森に囲まれ、簡単には見付からない場所となっているらしい。
この町にずっと住んでいる俺も、あの時、藍に教えてもらうまでは知らなかったくらいだ。
『ねえ、どう?』
幼い藍が隣で無邪気に微笑む。
『……うん、すごい』
圧倒されて、いつもの強がりすらも忘れ、ただその光景に見とれていた。
『ろまんちっく、だよね?』
『男のロマンとはちょっと違うな』
『……氷雨に聞いたわたしがバカだったよ』
ため息を吐きながら、藍が俺の手を握り直した。少しだけためらいながらも、俺もその手を握り返す。
『こう言うのが、ろまんちっくなの』
自慢げに話す藍の声は少しぎこちない。湖を眺める俺の目では、藍の表情は窺うことはできない。
しばらく俺達は無言で湖を眺めていた。
『……氷雨?』
『ん?なんだ?』
俯く藍が小さく呟く。
『ここのことは秘密ね』
『あぁ、わかった。今日からここは二人の秘密基地だな!』
繋いだ手を解き、小指を絡ませる。
『約束だよ!』
藍はとびっきり嬉しそうに笑う。そして、なにかを思いついたようで、俺の側に寄ってくる。
『ねえねえ、例外作らない?』
例外。その響きにときめいた俺はすぐに賛同した。
『じゃあ……、ここで結婚式やるなら教えていいってことにしようよ!』
藍がにっこりと笑う。
『……まあ、いいか』
最近結婚した担任教師に感化されたのは見え見えだったが。
あのキラキラした目で見られたら断るなんて出来るはずがない。
『お前、結婚出来るのかよ?』
『出来るもん!氷雨こそどうなのさっ!』
『絶対藍よりは早く結婚するから安心しろ』
『殴るよ?』
俺と藍は、二人しか居ない湖で笑い合う。
『……氷雨、もし結婚できなかったら貰ってくれる?』
『ん? 負け宣言か?』
『ま、真面目に聞いてるの!』
小さな藍が俺の頭を叩いた。この頃から藍の沸点は謎だったようだ。
『仕方ねーな。貰ってやるよ』
『えへへ、ありがと』
『……すぐ抱きつくなよ』
腰に巻きつく藍を引き剥がしながら、笑う。
顔を上げると、太陽は沈みかけていた。夕日が青かった湖を赤く染める。
『やばっ!姉ちゃんに怒られる!』
『あっ!わたしもお母さんに怒られちゃう!』
『行くぞ、藍!』
俺は藍の手を掴んだ。
走り出そうと引っ張ると藍が声を掛けてきた。
『ねぇ、氷雨……』
「氷雨ー?」
再び目を覚ますと、高校生の藍が俺の顔を覗き込んでいた。
「……一気に老けぐふッ!?」
鳩尾に鋭い拳が突き刺さった。眠気は吹き飛んだが、意識が再び沈もうと視界が点滅しはじめた。
「――まったく、いきなり喧嘩売ってくるから」
「ごめん、寝ぼけてたんだよ……」
まだ痛む鳩尾を擦りながら、藍が作った朝食を食べる。
「でも、侵入するのは止めてくれ」
「起きない氷雨が悪い。お姉さんにも頼まれてるし」
姉貴め……。相変わらず、とんでもない爆弾を残していやがる。
何をするでもなく、俺が朝食を食べる姿を眺めている藍を一瞥する。その笑顔は昔から変わっていない。
――さっきの夢の話をしたら、こいつは一体どんな顔するんだろう?




