忌愛
「やあ、遅かったね」
今、我が家では藍が夕食を作ってくれているはずである。
「お前、なんでここに居やがるんだよ?」
そこには月穂が笑顔で座っていた。
「買い物の帰りに偶然会ったんだよー」
ご機嫌な藍がにこやかに口を挟む。
「なんでわざわざ俺の家に連れてきたんだ?」
「わたしの家へ招待して、氷雨が夕食抜きでいいのなら、わたしは構わないけど?」
「それは困る」
自分で言うのも悲しいが、あんな毒物を食べるのは御免だ。あのラーメンもどきは、幻想の楽園が見えたくらいに常軌を逸脱していた。
「――そんなことより、夕食食べようぜ!」
これ以上思い出して、食欲を減らすのも止めたい。
「はいはい、すぐ用意するね」
勝ち誇ったような顔で藍が夕食の準備を始める。とは言えほぼ出来上がっていて、仕上げだけすればいいらしく、食卓に並ぶのに大した時間は掛からなかった。
食卓には、麻婆豆腐、エビチリや回鍋肉と中華三昧が並んでいた。
いただきまーす、と三人揃ってお決まりの文句を言ってから、箸を伸ばす。
「うん、すごい美味だね! そういえば、わたしも食べちゃってよかった?」
月穂が今更なような質問をするが、彼女の口には合ったようだ。
藍も、もちろんです!と返しながら、エビチリを頬張る。
藍の料理はとてつもなく美味い。味もさることながら、見映え、配置も素人目には完璧に見える。
「ほら、少年!しっかり感謝しないとね。こんなにしてくれる人、そうそういないよ?」
「ふわぁっ!? 月穂さん! いいですって! 自己満「労働には然るべき対価が必要なんだから、お姉さんに任せときなさい」
突然、月穂に肩を掴まれる。
「ねぇ、少年? 藍さんにお礼言いなさいね。こんな風に……。
……ね、ほら!」
……?なんでこんなこと言わなきゃならないんだ?
とりあえず、月穂に耳打ちされた通りに言ってみることにした。
「――藍はいい嫁になるな」
藍はぽかーんと動きを止める。
「藍さん? 感想は? ほら、か・ん・そ・う」
月穂は実に楽しそうである……。こいつ、かなり気持ち悪い。
「いや、あのーー。棒読みはちょっと……」
苦笑いの表情の藍が乾いた笑い声を上げる。
「だってさ、やり直す?」
「……いや、やめとく。やっぱり感謝は自分の言葉で伝えないとダメだしな」
「おーお」
月穂が藍を見たまま、感嘆の声を漏らす。
「……これが天然かぁ。一歩間違えるとイタい子だね」
俺は何故か間抜け面で停止している藍を見る。
「藍。……いつも色々ありがとな」
かなり照れ臭いぞ、これ。顔の温度は間違いなく上がっているだろう。
藍は俺と目を合わさず、そっぽを向いてしまっている。
……怒らせたか? まぁ、俺も恥ずかしいからこれ以上は止めておこう。
「……氷雨」
向こうを見ていた藍の顔が俺の方に向けられる。視線は微妙に逸れてはいるが。
「ありがと」
「え? あ、あぁ」
てっきり殴られると思っていたが、大人しくお礼を言われ、やはり照れ臭い。
「なんなの、この不思議空間は?」
さっきから肩を小刻みに震わせていた月穂がケラケラと笑い出す。
「もう! 月穂さん!」
ようやくからかわれている事に気が付いた藍が、ぷくーっと膨れる。
夕食の後、しばらく無意味な談笑がこんな風に続いたのだった。
「あ、そろそろ帰ろっかな」
時計の針は九時を差していた。
ソファーから身軽に立った藍が、見るからに軽そうな鞄を持ち上げた。
「少年、送っていかないと」
月穂にぐいぐいと背中を押され、玄関まで移動を余儀なくされる。
「月穂さん、わたしは大丈夫ですって」
「いいから、いいから」
鼻唄混じりに俺に玄関の鍵を握らせた月穂に引っ張られ、結局送ることになっていた。
月穂は常時愉快そうに笑っていた。この人、すべて悪ふざけだろ……。そうでないとしても、少なくともそう見えるのであった。
帰り道、藍と並んで歩く。
月穂はあの夜同様、後ろから抱き着いていた。……歩きづらいが、俺も藍も、もう諦めた。間違いなく何を言っても無駄だろう。
「いやー、月が明るいね」
月穂が耳元で呟く。
「そうだな」
三日月よりも少し太った月がこの街の夜を照らしていた。街から少し離れたこの辺りは暗く、空からの光が輝いてみえる。
「……綺麗だね」
藍がはしゃぎながら振り向く。
「夏目漱石? そんなことじゃ、少年には伝わるわけないはずだね」
「それでもいいんです」
藍と月穂が笑い合っている。
「なんのことだ?」
「少年は気にしないでいいこと」
愉快そうに月穂は笑う。彼女の腕の締め付けが少し強くなったような気がした。
「じゃあ、わたしはここで」
月穂が唐突に腕を離した。
「……お二人さん、じゃあね!」
少し惜しそうに手を振ると、月穂が駆けていく。
俺は薄暗い道に飲まれていく背中を見続ける。
「氷雨?」
「なあ、――月穂が犯人なんだろうか?」
藍に聞くべきではないだろうが、そんなことはどうでもよかった。
「……そんなの知らないよ」
「あぁ、そうだよな。……ごめん」
「ううん、いいよ」
藍は首を横に振った。月明かりに浮かぶ藍の顔が影を帯びる。
舗装の少し荒れた道路に二人の足音だけが響く。二人とも口を開かずに歩く。
そのまま藍の家のあるマンションに着いてしまった。
「氷雨」
突然立ち止まった藍が振り向いた。
「――疑っても、疑心暗鬼になっちゃダメだよ」
藍が不意に俺の手を握る。無言を保ったまま、視線が交わる。
「氷雨は変わらないでね?」
「いきなり何を言い出してんだよ?」
「……ごめん。あの人達と会ってから、雰囲気が変わった気がしたから」
「そんなことで変わらないさ」
でも、悩むことは増えたのは確かだ。
俺の近くで事件が動いている。それも残虐と称してもお釣りがあるような未曾有の連続殺人事件だ。
「氷雨さ。自分の手で事件を解決しようとしてないよね?」
「………………」
「やっぱりそうなんだね?」
「痛い!痛いって!」
呆れたように俺の手に爪を食い込ませる。
「……ふふ、あはは! ばーか!」
一転して顔を綻ばせた藍に笑われた。
「それだけで止まらないのが氷雨だから、言っても無駄なのはわかってるよ。……やっぱり、氷雨はいつまでも経っても変わらないよね」
「……心配掛けてごめんな」
俺の危機回避のせいで身代わりになった人のためにも、この事件は止めなくちゃいけない。――俺はもう両足とも踏み入れている。後に引き返すには遅すぎるし、引き返す気もない。
「死なないでね……。じゃ、じゃあ、おやすみっ!」
藍は二階への階段を駆け上がっていった。
……藍、ごめん。声になったのかすら分からない言葉は夜に染み入り、あっさりと溶けて消えた。