卑しき者に銀の刃を
影は家まで着いて来ることはなかった。藍にも電話をしてみたが、何もなかったようだ。
「――なんだったんだよ?」
明穂の心を覗く能力。あの怪しい月穂とかいう女。それに、あの人影――。
この町で何が起きている?明穂が言うように、月穂が犯人なのか?それなら、月穂が出てきた時点で明穂は攻撃するか、逃げることを選ぶはずだ。
だが、あれは姉妹にムキになるただの子供のような意地でしかないように見えた。
結局、どれだけ考えようと答えは出ない。暗い部屋で天井を睨みながら思考の渦に沈んでいく。
「……だめだね、まだ寝てる」
静かな部屋に小さな呟きが響く。声の主がゆっくりと布団に手を掛ける。そして、息を肺いっぱいに吸い込む。
「おーきーろーっ!!」
その声と同時に布団を引き剥がした。
「……あぁ、おはよう」
慣れてしまった藍の手荒な起こし方に文句も言わずに起きる。
「合鍵あるからって勝手に侵入するのは止めてくれ、心臓に悪い」
「お姉さんからの許可があるからいいでしょ?」
海外に短期留学している姉さんから世話係に任命されたらしく、侵入常習犯となっていた。鍵を変えてやろうともしたが、その後の姉さんからの処遇を考えた結果、断念した。
「氷雨?朝ご飯まだだよね?」
あぁ、と短く返事をして寝癖と格闘する。
やっと直し終えたところで、藍から声が掛かる。
相変わらず、すごい手際だ。目の前の皿にはほどよく焼けたトーストが置かれていた。
「ほら、早く食べなよ」
「あぁ、いただきます」
俺は少し急いでトーストを口に運ぶ。
「それじゃ、外で待ってるからね」
藍が先に出ていってしまう。彼女なりの急げということだろう。
俺は出来るだけ早く準備を済ませると、外へ出る。
「おう、待たせたな」
「まだ五分だよ」
藍は少しも嫌な顔をしないで笑う。
空は青く晴れ、雲はまばらに浮いているだけだった。
いつもの通学路を歩いていると、遠くに人だかりが出来ているのが見えた。
「……氷雨」
「行くぞ」
昨日のこともあり、近付いてみると、やはり例の事件だった。
だが、聞こえてきた話からすると、死んだのは中学生の男子らしい。
詳しく聞きたかったが、学校に遅刻しても厄介なので急ぐことにした。遅刻の理由が野次馬なんて洒落にならないだろう。学校に着くまで、俺達に会話は一切なかった。
やはり学校では、既に事件は知られていたらしく、物騒な話が飛び交っていた。模倣犯、猟奇殺人、実は裏で繋がっていたなんて噂も広がっており、最早、一種のエンターテイメントのようである。
自分達も巻き込まれる可能性もあるというのに、誰もがまるで他人事のようだった。町が異常に慣れてしまった結果なのだろうか、恐怖からの逃げなのか。
――誰もが事件を枠の外から眺めていた。
「誰もここにいるかもしれない犯人に目をつけられるのは嫌なのよ。無関係を装って、自分を標的から外したいから他人事なのよ。……いえ、他人事だと思いたいのね」
昼休みに教室にやって来た明穂が、俺の問いに確信めいた返答をする。
「化け物相手に通用するとは思わないけど」
そんな周囲の生徒を一蹴するように、明穂が鼻で笑う。
自分が通る道の邪魔になれば殺す。そんな考えの怪物に無駄に複雑な理論を振りかざそうが、意味は無い、か。
「言ったら悪いのでしょうけど、運が無かったのね。見てしまったこと、通り道を塞いだこと、存在を知ってしまったこと自体が」
明穂は弁当のおかずをひとつ、口にする。
……そこで気付いてしまった。
「なぁ、それはなんだ?」
「見てわからないかしら? 『イチゴ』よ、『イチゴ』」
次に俺は彼女の弁当箱を指差す。
「それは?」
明穂は意図を掴みかねるように、首をかしげながら答える。
「『おはぎ』だけど……」
指をさらに隣に動かす。
「これは?」
「『パンケーキ』よ」
「こっちの容器は?」
「『プリン』に決まってるでしょう?」
なんでこいつの弁当には甘味しかないんだよ……。なんなのよ、と言いたげに明穂が訝しげに俺を睨む。
俺はひとつの結論を導き出した。それは……、
「明穂、ひょっとしなくても甘党だろ?」
「えぇ、なにか悪いのかしら?」
明穂が上から目線な笑みを浮かべる。
「身体に悪いぞ?」
「あなたに心配されるなんて思いもしなかったわ」
心底驚いたようで、今まで一度も止まらなかった糖分弁当を食べる箸が初めて止まった。
――隙ありだな。俺は素早く手を伸ばし、目標物を掴み取る。
「イチゴひとつ貰うぞ」
「――あ」
明穂から発せられたとは思えないような弱々しい声を漏らしながら、弁当から離れてゆくそれを眺めていた。彼女はまるで小動物になったような儚げな表情で、俺の口に吸い込まれていくイチゴを目で追っていた。
「もう! 前言撤回よ!」
彼女はそれから番犬のように、弁当箱を見張りながら箸を進めていった。
食べ終わると、明穂が俺を睨みながら立ち上がる。
「あなた、放課後空いてるかしら? ――少し、手伝って貰いたいことがあるのよ」
俺は藍に目線を送る。
「行ってきなよ、わたしは先に帰ってるからさ」
「ごめんな、藍」
「気にしないでいいよ」
藍はにこりと微笑む。
そして、藍は付け足すように呟いた。
「――この時間は安全だろうし」
俺はその言葉の真意を尋ねられぬまま、放課後を迎えてしまった。