今、会いに行きます
空を茜色に染めていた太陽も沈み、暗闇がこの町を支配し始めていた。曇り始め、星明かりも漆黒の中に喰われ
ていた。
こんな夜は、まるでこの町を象徴するように暗く沈んでいた。
「すっかり夜だねー」
「そうね」
藍と明穂がたわいない会話を繰り返す中、俺は考えていた。
なんなのだろうか、こんな夜は変な気持ちになる。ただ怖いだけじゃなくて、なにか喪失感があるような、奇妙
な感覚だ……。
「明穂先輩の家ってこっちだったんですね」
藍がきらきらと眩しいくらい瞳を輝かせ、明穂を見ている。
「えぇ、もう少し先にあるのよ」
「意外と近所だったんですね! あと、
――心を覗かないでくれませんか?」
藍が背中に当てられていた明穂の指先を払い除ける。
「……やはり、あなたもわかる人間なのね」
「周りに特別な人がいますからね」
特別な人――俺のことだろうか。じゃなくて、
「――やめろって」
一触即発な空気が漂っている中、二人の間に入った。
「氷雨君、あなたの能力のことを聞こうとしているだけよ。それとも、話してくれるのかしら?」
明穂の鋭い眼差しが俺を射抜く。彼女は最初から予期していたような表情だ。
「……藍、いいと思うか?」
「うん。隠してても、たぶんすぐに見破られるよ」
藍はさっきのような羨望などではなく、警戒の目を明穂に向ける。
「ふふ、嫌われちゃったみたいね」
「そうでもないさ。だろ?」
藍が明穂から目線を外さぬように小さく頷く。彼女はさっきと別人であるかのように、落ち着き払っている。
「今からは俺の話だ。とは言え、予想はついてるんだろ?」
明穂が小さく笑うが、それを無視して続ける。
「――『危険の回避』、それが俺の能力だ」
彼女は笑みを一切崩さない。
「……違うでしょう? あなたは危険から逃げて、それを先送りしているだけ」
よりいっそう笑みを強めた明穂が俺に詰め寄る。
「あなた、ろくな死に方しないわよ」
「そんなこと……わかってるさ」
突然、藍が俺の前に割り込む。
「これ以上、氷雨を攻撃しないでください」
藍の瞳には底知れぬ怒りが灯っていた。
警戒から攻撃に変わった目で明穂を見ている藍を明穂が見つめ返す。
「それほど想っているのね」
「藍、気にしてないから落ち着け」
明穂は息を吐き、肩の力も抜いた。
「氷雨君、聞きたいことがありそうね?」
彼女の目が細くなり、俺を見つめている。
実際に聞きたいことは山ほどあったが、ひとつだけ聞くことにした。
「――おまえ、この事件をどこまで知ってるんだ?」
きっと、今、一番重要なことだろう。
「全てであって、ほんの僅かでしかないわ」
「どういうことだよ?」
明穂の唇が滑らかに吊り上がる。
「――犯人を知ってる」
……は?
彼女の答えに頭の中が一瞬真っ白になる。
「――本当か?」
「私の姉が殺したのよ。あいつしか有り得ない。私はあいつを殺してでも止めて見せるッ!」
「――殺すって? ふふっ、怖い怖い」
突然、会話に新たな声が加わった。声は、俺の後ろから?
「な――ッ!? なんで……、なんで…………」
くるりと俺の首に腕が回された。――もしかして、抱き着かれてないか?
明穂は警戒するように後退りをしていく。
当の、明穂が警戒している相手は……、
「すん……。意外と男らしい匂いだね。あ、いい匂いだからね?」
なぜか、俺の匂いを嗅いでいた。匂いを嗅ぐ度に肩の長さに切り揃えられた髪が首筋をくすぐったく掠める。
明穂は警戒の目を後ろの人物に向けている。
それと別のところでも火種がくすぶり始めていた。
「氷雨から離れてくれませんか?」
俺の目の前に入ってきた藍が、いとも容易く相手の手を捻り上げる。
「いたたた、離す離すーっ」
……当の本人は実に楽しそうだった。
やっと視界に入ったその女は楽しげにけらけらと笑っていた。
肩までで切られた黒髪、不格好に羽織った白衣、歳は俺より少し上だろうか?
「久し振り、明穂。元気だった?」
明穂がキッと女を睨み付ける。
「本当に久し振りね、――月穂」
その言葉と同時に明穂は取り出した折り畳み式のナイフをその女に向ける。
だが、月穂と呼ばれた女はそれを気にする素振りもせず、俺の肩に手を掛ける。
「ふふ、明穂。相変わらず短絡的ね。ほら、あの時だって……」
「黙りなさいッ!!」
明穂が月穂に向けて叫ぶ。
「あなたを許したわけじゃないんだから――ッ!」
「許してもらおうなんて思ってないわよ。でも、――わたしの邪魔はしないでね」
一瞬だけ覗いた冷たい笑顔が俺を戦慄させる。
「ふふ、少年は面白いね」
柔らかく笑った月穂に頭を撫でられる。
なんで一々、馴れ馴れしいんだ?
「――ほら、道の先を見てごらん」
月穂が俺にしか聞こえないように小さな声で囁いた。彼女の言う通りに道路を辿っていく。
――いた。真っ黒の影がこっちを見ていた。
「……あれは誰だ?」
「『誰か』、ね」
楽しげに笑いながら月穂が続ける。
「まさか……、最近の事件の?」
被害者は『誰か』に追われていた。
「次の標的は俺達なのか?」
「違うよ。あれの目的はそんな小さなことでは済まない。わたし達なんて、ただの障害物に過ぎないよ。目の前の
障害物を踏み潰して進んでいるだけ」
顔色も変えることなく、機械のように月穂が言葉を紡ぐ。
「……邪魔だから殺したっていうのか?」
そうだよ、と月穂が囁く。
「じゃあ、道を開ければ通り過ぎるのか?」
彼女が小さく首を振る。
「目的地はそう遠くない。なにをやるかなんてわからないけど、大きなことをやる。止めなきゃこの街が地図から
消えるよ」
あまりにもあっさりとした言葉に、現実感など微塵もないが、なんとなく信じなくてはいけないような気がした
。
話している間もその人影はただ、俺達を凝視し続けていた。
さっさと立ち去ろう。きっと、今はそれが得策だ。
「怖い顔になってるよ?」
月穂が俺の頬を優しく撫でる。
「大丈夫、少年はそう簡単に死なないから」
ぞわりと背筋が凍りついた。
「おまえ、――どこまで知ってるやがる?」
「ふふ、内緒なんだよね」
この人にこれ以上、何をどんなに聞こうと無駄だろう。
「さ、わたしは帰るとしようかなー」
月穂は大袈裟に伸びをしながら、俺から離れた。
「月穂!待ちなさいッ!」
明穂が月穂の腕を掴む。
「物事にはね、順序と時間があるものよ。でないと、あの時みたいに失敗するかも知れないわよ――」
月穂を掴む彼女の指から力が抜ける。
しばらくの沈黙の後、明穂が月穂の横をすり抜け、ゆっくりと歩き始めた。
「じゃあ、順序と時間を守れば話すのね」
「ええ、もちろん」
大丈夫かよ、あれ……。
明穂の歩みは足元がおぼつかず、ふらふらと進んでいた。
「もう、危なっかしい妹だわ。ほらっ、しっかり歩く!」
月穂が明穂に駆け寄り、彼女を支えた。結局は姉妹なのだろう。……明穂は相当嫌がっているようだが。
てか、遊んでないか、あの人?近所の凶暴な犬を檻の前で牽制して遊ぶような。
「氷雨、帰ろう」
「あぁ」
藍が俺の手を掴む。
その間も、人影は動かずに、ただ俺達をずっと見つめているだけだった。
だが、間違いなく俺達の方を見続けていた――。