憎めばこそ
まばらに雲が散る空には、太陽がまだ居座っていた。さらに赤が増した茜色の日光が、桔梗の家を朱色に染めている。
呼び鈴を何度か鳴らすが、彼女が出てくるような気配は感じられない。
「……仕方ないよ、出直そう」
藍が踵を返し、歩いていく。
「藍! ちょっと待っててくれ!」
鞄からをノートを一枚ちぎり取って、ペンを走らせ、それを郵便受けに入れた。それだけ済ませると、藍を追い掛ける。
俺達は次に美香の家に向かった。着いた頃には陽も落ち、街灯があちこちで灯りはじめていた。
マンションの階段を上がり、美香の部屋の呼び鈴を鳴らす。
「――なんで?」
扉が開き、中から現れた美香が驚きの声を漏らす。
「……とりあえず、入っちゃってよ」
やはり元気はなさそうだが、明るさを取り繕っているみたいだ。
部屋に通され、美香と向かい合う。
「慰めならいらないよ」
「……美香」
開口一番、弱い声色で彼女が告げる。
灯りも点けられていない部屋は薄暗く、彼女の心のようだった。
「じゃあ、単刀直入に聞くぞ。――あの時、何があった?」
う……、と彼女は言葉を詰まらせる。
「ひ、氷雨……?」
「おまえが狙われた訳じゃないんだろ?」
黙ったままの美香に向けて、さらにまくし立てる。
「おまえには、『誰か』が見えたわけじゃないだろ?」
「黙れよ――ッ!!」
美香が叫び、俺に掴み掛かる。
「アタシは怖いの!! 目の前で人があんな簡単に死んだんだよ!? あの目、あの口、あの顔……。忘れられるはずないじゃない!」
臆面もなにもなく、美香が喚き散らす。
「君はアタシがどんなに辛いか分からないくせに、勝手に心の中に入ってきて!」
彼女の叫びは止まらない。美香の手が俺の服をギリギリと締め上げる。
「君に何が分かる……。君に、アタシの何が分かるの――ッ!?」
彼女が真っ直ぐ俺に向けて叫ぶ。
「……何も分かんねーよ」
「なら、放っておいてよ! 君には関係の無「関係あるの!」
美香の叫びを遮ったのは、藍だった。
「わたしが氷雨が何を追ってるのかを知りたくて調べてたの!」
美香の顔からゆっくりと強張りが取れていく。
「ははーん、大体わかったよ」
美香が素早く藍の隣に回り込み、耳打ちをする。
「そ、そんなんじゃないって!!」
何を耳打ちされたのか、藍は真っ赤になり、分かりやすく慌てふためいている。
「氷雨君、さっきはごめんね。精神的に余裕なくてさ」
「こっちこそ、さっきは言い過ぎた」
「わざと、でしょ?」
美香はくすりと笑って見せる。
「でも対策しなきゃ、かな?」
美香が不安そうに顔をしかめる。
「『誰か』から?」
「うん。調べてたこともあるし、狙われる理由は十分だと思うから」
「すぐに殺されることはないんだったよね?」
「うん。恐らくは、だけど」
狙われた被害者は『誰か』に怯え続け、最終的に行動を起こして死んでしまう。それがこの事件の特徴であり、最大の難点だ。
直接手を下さないから、被害者に証拠が一切残らず、自殺として処理され、警察は捜査を打ち切ってしまう。
「だったら、互いに相手にその予兆が無いか、監視し合うのはどうかな?」
美香が自信ありげに提案する。
「ほら、被害者は誰かに見られてるって言ってたんでしょ? お互いに怯えてたりしないか監視し合うの。それなら、誰にも言えないとしても分かるでしょ?」
「確かに、それは安全策だな」
とりあえず、一通り話は纏まった。
「あとはこの事件から手を引いてくれってだけだ」
「もちろん、一切関わらないようにするよ。それに、――もう必要ないみたいだしね」
美香がにっこりと藍に笑みを向ける。
「美ぃー香ぁぁーーっ!」
藍が美香に飛び掛かり、一気に重い空気が換気される。
「「おじゃましましたー!」」
外に出ると、辺りは真っ暗で、月と星が空を彩っていた。
夜も遅いこともあり、桔梗の家には明日の放課後に訪ねるということに決まった。
「明日も晴れるかなー?」
美香が玄関前で空を見上げる。
「疲れてるんだから、見送りなんてよかったのに」
「いいの!気分転換にちょうどいいよ」
美香と藍が空に手を伸ばす。
「じゃ、ここら辺で!」
マンションから出て、すぐの交差点で美香が立ち止まる。
「あぁ、気を付けろよ」
「うん、心配してくれてありがとうねー」
美香が笑顔で手を振る。
「藍もがんばりなねーっ!」
「うるさーいっ!」
少し頬を赤らめた藍は、半歩先を歩いていく。
「――ッ!?」
視界の端を何かが通り過ぎた気がした。だが、そちらに振り向いても、なにも見えない。
「氷雨、どうかした?」
「……いや、見間違いみたいだ」
それから家に帰るまで、なにかを感じることは一切無かった。




