忍耐と痛み
翌日、藍は完全に復活していた。
「ほら!起きなさーい!」
……うるさいくらいに。
揺さぶられる身体を起こして、左手で藍を引き剥がす。
「おはよっ!」
「……あぁ、おはよう」
なんだか、看病したことを後悔してきた。藍は俺が起きたことを確認すると、朝食を作るためか、キッチンへ行ってしまう。
あの頃から藍は何ひとつ変わらない。窓から射す陽を浴びながら幼い思い出のいくつかを微かになぞってみる。あの頃の記憶が木漏れ日のように暖かく俺をくすぐる。毎朝起こされることも、些細なことでケンカをすること、こうして同じ食卓で食事することも、何回も繰り返した思い出だ。
「氷雨?急がないと遅刻するよ?」
「あ、あぁ、そうだな」
藍に催促され、家を出た。
通学路で見かける人の数はやはり減っていた。
散歩する老人、庭の手入れをしている主婦、通学する学生を心配そうに見送る親。そんな人達も犯人の見当もついていない不審死に、外出を躊躇っているのだろう。通り過ぎる人々も張り詰め、警戒をしている様子だった。
まるで全てを敵視するように、周囲を見ている人ばかりだ。
「……無理もないか」
「氷雨?」
「なんでもない」
この事件を早く終わらせないと、この街は瓦解していくような気がしている。疑い合っているような状況が続けば、やがて人は壊れていくだろう。
ただ、この事件に関わっている存在が掴めない。
――あの化け物。誰が作り出し、何のために動いているのか。それすら分からない俺に、この事件を解決する力はない。だから今日も明穂の元へ行かなきゃいけない。
「――雨!氷雨!」
「うわっ!?」
顔を上げたら、目の前に藍の顔があった。
「……怒ってる、よな?」
「わたしを無視する氷雨なんて嫌いだもんねー」
「ごめんごめん、考え事してた」
「わかってる、事件のことでしょ? 氷雨は悩み過ぎだよ。いつもしかめっ面を見せられるこっちの身にもなってみてよ」
藍の言う通りだ。今、無駄に張り詰める必要はない。
「……悪かった」
そのせいで藍を心配させるわけにもいかない。だが、一瞬だけ覗く藍の表情は微かに曇っていた。
昼休み、彼女の感情の曇りはさらに増していた。
「どうしたんだろ……」
美香と桔梗。彼女らが二人共、学校を休んでいるらしかったからだ。
その理由を俺はすぐに知ることとなる。
「彼女達は見てしまったからよ」
「何をだ?」
放課後、西日が射す教室に立っている明穂に話すと、この質問をまちわびていたかのように話し出す。
「昨日の事件の目撃者よ。しかも、――彼女達のすぐ手前で人が潰されてしまった。普通の人間が耐えられるモノじゃないわ」
つまり、目の前で人が死んだショックってことか。
「『誰か』の存在も、負担になっているでしょうね」
やっぱり藍は帰しておいて正解だった。『誰か』を探し出して殺す、とか言いかねない。
「つまり、俺達が早く解決すればいいってことだろ?」
「突き詰めて言えば、そうね」
明穂がニヤリと笑った。
「まあ、今日はおしまい。帰っていいわよ」
「今日はなにもしないのか?」
「あら、あなたにはやるべきことがあるでしょう?」
そう言われ、背中を押された。
「ほら、わかってるじゃない」
不敵に口角を上げた明穂に送り出された。
俺は明穂に心を読まれ、違和感が僅かに残ったまま、帰路に着いた。
その帰り道で何度もやることを反芻する。藍に二人のことを伝え、行動を起こさせないようにする。
俯いたままの藍の顔色は伺うことは出来ない。
「……そう、なんだ」
帰ってすぐ、藍に明穂から聞かされたことを話した。
「……氷雨。わたし、氷雨が事件を調べてること知ってから三人で調べてたんだ」
藍は俯いたまま話しはじめる。
「わたしのせいかな?ねえ、わたしのせいだよね?」
虚ろな表情をした藍が俺の腕を力なく掴む。
「落ち着け、お前のせいじゃない」
「わたしが誘わなきゃ、二人は無関係だったんだよね。氷雨、悪いって言って……。
わたしが悪いって言ってよ――ッ!」
俺にすがりつき、顔を上げた藍の目から大粒の涙が溢れていた。
フラッシュバックしたあの記憶を押し込めて、今に向き合う。
「わたしが悪いんだって、ね? 氷雨、わたしが悪いんだよね、答えてよ。悪いのはわたしだよ、わたしが――」
次第に涙で声が掠れ、声にならない声が俺に向けられる。
その声も消えた後にゆっくりと口を開く。
「おまえは悪くない」
「氷雨の、ばかぁ……」
涙で濡れた手で胸を殴られた。それでも俺は、藍に悪くない、と言いつづけた。




