人間のかたち
藍の深く規則的な呼吸音が小さく聞こえる。ふたつある布団のひとつで藍は眠っている。
どうやら、藍の熱はそれほど酷くはなく、一、二日あれば治りそうだ。
何かしたいのだが、再三に渡り、料理だけはしないで、と釘を刺されてしまい、手持ちぶさたにテレビを眺めていた。やはりニュースでは、『誰か』が起こしている事件について、快楽殺人だとか愉快犯だとか騒いでいる。だが、彼らは曖昧なことを話し、事件の本質からは目を背けていた。
この事件は人間でないものが起こしている。人間の思考回路で動いているのかすらもわからない。常軌を逸している前に、常軌という概念のない化物を相手にする事件だ。人間を追っていると思っている内は、警察はその影すら掴めない。
それを知っているのは、明穂と月穂と俺……。
そして、――死にゆく人間だけだ。もしかすると、俺達もその中に入っているのかも知れない。
「……ん」
寝息が途切れ、藍が起き上がる。
「氷雨? おはよう」
ふらふらと藍が立ち上がった。
その時、彼女の足がもつれる。
「危ねッ!?」
腕を伸ばし、なんとか、藍を受け止める。
「大丈夫か?」
寝ぼけているのか、曖昧に首をカクリと動かすと、俺に倒れ掛かり、また規則的な寝息を吐きはじめた。藍を寝床に移動させようとしていると、藍の目がぱちくりと開く。
「あ」
「……なんで氷雨はわたしをお姫様抱っこしてるのかな?」
顔が真っ赤だ。絶対に怒ってるぞ、これ。
「氷雨、説明」
「はい」
俺は最後のチャンスを無駄にしないよう、懇切丁寧に説明した。
「……わたしが悪いかぁ」
恥ずかしそうに、藍が目を逸らす。
「で、感想は?」
「は?」
藍がにやりと笑う。
「わたしをお姫様抱っこした感想だよー」
目がぎらぎらと輝いている。
「ちょっと太っ、ぐぶっ!?」
口を滑らせ、気がついたら、腹部に右ストレートが食い込んでいた。
「何か言った? で、感想は?」
鬼のような形相で藍が俺を見ている。
「羽毛のような軽さに驚愕いたしました」
「うーん、及第点かな」
ため息を吐いた藍がソファーに腰掛ける。彼女の額には、多少の汗が浮かび、呼吸が乱れていた。
「藍」
藍を手招きする。
「なーに?……ひゃっ!?」
タオルで彼女の額を拭う。
「ったく。病人が暴れるから」
「うぅ、面目ない」
「少し待ってろ」
しばらくして、キッチンから出てきた俺に、藍があからさまに顔を歪める。
「ほら、レトルトのお粥」
電子レンジくらいなら俺でも使えるんだよ。レトルトと聞いた途端、あからさまに彼女の強張りが和らぐ。これ、目の前で俺が食べてやろうか?
そのお粥をスプーンで掬い、藍に差し出す。
「じ、自分で食べれるよ!」
「病人は黙って看病されてればいいんだよ」
藍の口の前に差し出したお粥を彼女の口へ運ぶ。
「……美味しいよ。氷雨もやればできるんだね」
「レトルトだぜ? さすがにこれは失敗しないだろ」
二口目を藍に食べさせる。
「ん、おいし」
藍が大人しく、お粥を食べている。こうしていればまともなのにな。
「どうしたの?」
俺の目線に気が付いたのか、藍が首をかしげた。
正直に言うわけにもいかず、「なんでもない」とはぐらかす。
なんだよぅ、とふてくされながらも、藍はお粥をしっかり平らげたのだった。
陽が沈み掛けた頃、唐突に呼び鈴が鳴った。
「こんにちは」
そこには、明穂が笑顔で立っていた。明らかに不機嫌だ。
「藍さんが風邪なんですって?」
「誰から聞いたんだ?」
「忌々しいことに、月穂がわざわざメールをしてくれたのよ。いつ、アドレスを知ったのか知らないけれど」
あぁ、だから機嫌悪いんだな。
多分、月穂に付き添われた時か、と忘れ去りたいであろう記憶を突つくのも気が引けたので、この一文を飲み込む。
「入るか?」
「当たり前でしょう?なんのために来たと思っているのよ」
明穂を家の中に入れるというか、押し入られる。
「あれ?明穂先輩?」
パジャマ姿の藍が目を丸くする。
「調子はどうかしら?」
こいつ、俺以外に対しては態度がいくぶんか柔らかいんだよな。
「バッチリです!氷雨に看病してもらったら、かなり良くなりました!」
「お優しいことで」
明穂がからかうように耳打ちしながら、俺を見る。
「さて」
明穂がわざとらしい伸びをする。
「夕食作ってあげるわ。氷雨君、手伝いなさい」
俺の返事なんて待たずにキッチンまで引きずられた。
「――で、用件はなんだ? まさか、本当に看病しに来ただけじゃないんだろ?」
「ふふ、ちゃんと分かるようになったのね」
数秒間の重い沈黙の後、明穂が話し出す。
「――新たな被害者が出たわ。作業用のクレーンから一気に降ろした鉄骨で通行人を、グシャっと。得体の知れない『誰か』が見てたから先手を打った、と言っていたらしいわよ」
「そいつは生きてるのか?」
「通行人、犯人共に死んだわよ。逮捕した直後、突然逃げ出して車道へ」
「やっぱり、か」
この事件は加害者になった側も死んでいく。テレビで見た話だが、犯人が刑務所で首を吊ったり、壁に頭を思いきり打ち付けたり、遂には、フォークで自分の眼球を刺し貫いたりして死んだらしい。
事件に関する証人は死ぬ。そのことも、この事件を難しいものにしている要因のひとつだった。
「次第に周期が短くなってる。奴はじきに本当の計画を成すわよ」
「そうなったらどうなるんだ?」
明穂が思わせ振りに、にやりと口を歪めた。
「さあ?どうなるかしら?」
彼女の隠した言葉を想像するが、まともな結果でないということは明らかだった。




