苦いもの
『助けて、氷雨っ!』
血濡れた手が俺の胴に回される。彼女自身にもいくつもの傷があり、血が流れていた。だが、それ以上の血が彼女を濡らしていた。
彼女の流す涙が血を薄く滲ませていく。
『助けて、助けて、助けて、助けて、助けて、助けて、助けて、助けて、助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助け…………』
藍の声が頭を巡り、目の前の景色がぼやける。それでも俺は、彼女の手を握り続ける。やがて、彼女はなにも話さなくなり、俺に泣きついていた。
結局、俺は何が起きたのか、聞くことはしなかった。そして、今も藍はそのことを話そうとはしない。
俺の両親も「大丈夫だった」としか言わなかった。
だが、あの日以来、藍はよく家に来るようになった。前からよく来てはいたが、さらに長い間居るようになっていたのだ。
――今日は目覚めが悪い。
忘れかけていた記憶が夢で流れ、俺の心は乱れていた。心臓は暴れ、肺は乱雑に空気を取り込もうと必死だ。封印しようと逃げてきた記憶は思わぬ形で俺を苦しめる。
がちゃりとドアが開いた。
「「あ」」
それは藍だった。
「起き、てたんだ」
まだ、いつも起こされる時間よりも三十分も早かった。
「おまえも早いな」
「うん、今日はなんか起きちゃったんだよね」
藍の動きは少しぎこちない気がした。
「もう朝ごはん食べた? 食べてないなら作るよ?」
「あぁ、頼む」
ゆっくりとした足取りでキッチンへ向かう藍をぼやっと目で追う。
どうしてもさっきの夢が頭をよぎる。
聞くべきなんだろうか? ぼやけた頭で考えるが、無駄だと言わんばかりに結論は出ない。
――いや、無意識に答えを出さないのだろう。
藍の為。そう言い聞かせて、俺は結論から逃げたのだろう。
「……着替えるか」
俺はもやもやを振り払い、支度を始めた。
外はしっとりと雨が降っていた。これからの時期、雨は増えていくだろう。
水溜まりに映る、ぐにゃぐにゃと歪んだ顔を掻き消すように踏みつけながら歩く。そんなことで沈んだ気持ちはどうしようもないことも解っている。
「や、少年少女」
通学路の花屋の店先。まだ開いていないであろう時間に、その軒先で雨宿りする月穂が小さく手を振っていた。
「迷ってるね、少年?」
月穂の本音の読めない笑顔が俺を捕らえる。
彼女の瞳が不気味に俺を縛る。
「いきなり、なんなんだよ?」
「ふふ、月穂お姉さんが相談に乗るよ?」
相変わらず、彼女の言動には心が通っている気配もない。
「少年、怖い顔しないの」
彼女の顔が緩む。
「うわっ!?」
それと同時に抱き着いてきた。
「ちょ、ちょっと!?」
藍もいきなりのことに驚いているようで、ただ突っ立っていた。
「人の秘密に触れるようなことなら、慎重にね」
こっそりと、小声で月穂が囁いた。やはり、読めない人だ……。
「でも、それ以上に周りを見ることね。あなた、ひとつのことしか見えてないみたいだよ?」
彼女の手が不意に動いた。俺が反応する前に、彼女の手が胸に到達した。
「これ、とかね」
不敵に笑う彼女の細い指の間に挟まれていたのは、昨日の白詰草だった。すでに花は萎れ、哀れな姿を晒していた。
「やっぱり気付いてなかったのね。そんなことじゃ、大切なものを知らない間に失うよ?」
彼女の瞳はいろいろな感情が入り雑じったような色をしていた。
「自分を信じてみなさい。君が正しいことをしていると思うのなら、お姉さんが助けてあげるから」
それだけ言うと、白詰草を俺の胸ポケットに返し、月穂は雨の中へと飛び込む。
彼女の服に小さな斑点がいくつも浮かんでいく。
「……自分を信じろ、か」
黒い空にいくつかの光が射した。雨も少しずつ弱くなり始めてるみたいだった。
「雨女か、あいつは……」
「氷雨、行こうよ?」
藍が俺の腕を掴む。
「おい、藍?」
引っ張ろうとする藍を引き留める。そして、手を伸ばした。
「ちょっと、氷雨?」
「……熱あるじゃねえか」
かなりの高熱で、藍の顔は真っ赤だった。どうして気が付かなかったんだ……。それは言わずもがな、月穂の指摘そのものだった。
俺は藍の手をとる。
「――帰るぞ」
「え?」
藍に口を挟ませないように歩き出す。どうせ、藍は学校に行こうとするだろう。藍は呆気に取られているのか、黙って引っ張られている。
「……氷雨は学校行きなよ」
「そんなこと出来るかよ、行っても気になって勉強出来ねえよ」
「ふふ、いつも寝てるじゃん」
「じゃあ、家に居ても変わらないな」
いつしか、いつもの会話をしながら帰路を歩いていた。
突然、藍に手を握られる。
「……ありがと」
「お互い様、だろ?」
いつしか雨は上がり、空には虹の橋が架かっていた。




