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作者: 木と蜜柑


 


 ちくたくちくたく。

 ちくたくちくたく。

 ちくたくちくたく。


 台所の冷蔵庫の上角に吊り下げた鳩時計が心音を刻む。あれがあの場所へやって来たのが、僕がまだ七つの頃。今は定刻になっても、その小さな窓からぽっぽと可愛らしい人形が顔を出すことはない。すっかり馬鹿になってしまった訳だ。けれど、停まることなく彼は刻む。


 ちくたくちくたく。

 ちくたくちくたく。


 僕は温もりを留めている、ぐしゃぐしゃに丸まった毛布にくるまり、ゆっくりと窓の方へと視線をやった。閉じられたカーテンの隙間からオレンジ色の光が僅かに差し込み、薄暗くこもったこの空間に一瞥をくれる。僕はこれと同じ光を知っていた。

 

 あの日、僕はじっと今と同じ場所に佇み、古びた流し台の前で夕飯をこしらえる、小柄な割烹着の背中を見つめていた。オレンジ色の夕明かりが、優しく婆ちゃんを照らしていた。


「亮介、なんかあったんか」

 婆ちゃんは、切った豆腐を味噌汁の中に放り込みながら、それとなく言った。低く皴がれた婆ちゃんの声に、喉の奥がつんとなって、ぐっと堪えていないと鼻水といっしょにしょっぱい水が零れそうになった。

「・・・ううん。」

 この一声だけで、必死だった。とにかく、婆ちゃんに気付かれてはいけない、何があっても婆ちゃんにだけは悟られてはいけない、と僕はなるべく静かに服の袖で我慢しきれなかった塩水を拭き取った。胸が苦しい。

 婆ちゃんは振り向かなかった。


 ただ、婆ちゃんの刻む心地よい包丁の音が小さなこの部屋に響く。


 放課後、友人を家に誘った際に受けた、悪意無き友の言葉に、僕の心は泣き声を上げていた。

『亮ちゃんとこは、狭いし汚いから遠慮するわ』

『そうそう、亮ちゃんの婆ちゃん、いつもかりんとう出してくれるけど、かりんとうはあんまりやしなあ』

 そう言われた途端、かっと顔に血が上ったのが自分でもわかった。それは、苛立ちや怒りとは全く違った、まさしく“羞恥”という感情の一端だった。友人達の前からすぐにでも駆け出して、隠れてしまいたい。そんな思いに苛まれた。けれど、僕は何食わぬ顔を装ってこう言った。

「まあな、あれは婆ちゃんの家で、僕ん家やないし。それに、僕かてかりんとうはあんまり好きやないわ」

 極めつけに、友人と一緒にふざけて笑い合ったのだ。


 結局、適当な理由をつけて遊びを断った後、「ただいま。」と帰宅した僕。婆ちゃんは、変らず夕飯をこしらえていて、狭い部屋の隅には、洗濯された僕の着替えが綺麗に折り畳まれていた。


 心がひどく痛んだ。

 早くに両親を亡くした僕にとって、この狭いアパートの部屋は、たった一つの家に他ならなかった。それに、本当はかりんとうは僕の大好物で、婆ちゃんの好物でもあった。

 秋刀魚の焼けるいい匂いが漂う。


「ポッポー、ポッポー、ポッポー、ポッポー、ポッポー、ポッポー。」

 鳩時計から可愛らしい顔が飛び出し、六回鳴いた。小学校三年生の秋、僕は婆ちゃんの背中を唇を噛み締めてその目に焼き付けていた。

 


 ちくたくちくたく。

 ちくたくちくたく。

 ちくたくちくたく。

 

(なんであの時、あんなこと言うてしもたんやろう)

 ふとそんなことを考えて、僕はふっと口元を緩ませた。

 ぐつぐつと煮える味噌汁と秋刀魚の匂いも、鳩時計の鳴き声も、オレンジ色の夕明かりに照らされた小柄な割烹着の背も、ひどく懐かしく、目を閉じれば昨日のことのように思い出される。


 たった一人になってしまったこの部屋。

 僕はゆっくりと静かに見渡した。

 婆ちゃんの面影と、香りを残したたった一つの僕の家。流し台の前でせっせと働く婆ちゃんの、夕日に照らされた背は、今思えば小学生の僕を守り育てる、強い背中だったんだ。



 もう一度だけ目を閉じると、僕は強く息を吸って、立ち上がった。

 このたった一つの居場所にさよならして、僕は明日、別の場所へと移り住む。共に歩んでくれる、彼女とともに。そして、今度は僕が、彼女の中の新しい命を守り育てる、強い背中になる為に・・・。

 



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― 新着の感想 ―
[一言] 涙腺に対して攻撃的ないいお話ですね。 おもしろかったです。
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