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ペットボトルの海

作者: 雀羽仁

 文芸部の部誌に出したものを修正して投稿。

 部誌のものとはエンディングが違います。


 「海の底には城があるんだ」


 皮膚を焼くような日差しの下、俺はぼんやりと彼女の白い項を眺めていた。

 珠のような汗が浮かんでは、滑らかな肌を流れ落ちていく。

 朝露が葉の表面を伝い、零れていくように。


 「古い城さ……海底で眠りに就いているんだ。遙か昔―――私たちが生まれる、ずっと昔から」


 低めの声、落ち着いた口調。彼女は夏の間、いつもこの岬の防波堤に座っている。

 普段は何をしているのか分からない。名前も知らない。

 何度も尋ねたが、その度に濁されてしまい、何故か教えて貰えなかった。

 俺は今年の夏、初めて彼女と出逢った。

 以来もう数週間になるが、俺はここ以外の場所で、彼女を見かけたことは一度もない。


 「よく知ってるな。行ったことでもあるみたいじゃないか」

 「さあ、どうだろうね……」


 彼女は言いながら、どこか寂しげに微笑んだ。背中まで伸びた髪を、吹き抜ける潮風が揺らす。

 瞬間に鼻をつく、むっとした磯の香り。






 俺が彼女と出逢ったのは、高校が夏休みに入ってすぐの頃だ。

 通学路として使っている海沿いのこの道から、岬に佇む彼女の背が見えた。

 話しかけたのは俺からだった筈だ。その後ろ姿が、あまりに綺麗だったから―――

 それから毎日のようにここを訪れては、彼女の話を聞いている。


 彼女は様々な話を俺に話して聞かせた。虹色のサンゴ、海中を飛ぶ魚、そして海底の城―――

 どれも夢のような話だったが、彼女の言葉にはどこか不思議な説得力があった。

 それは本当にあることのように俺の耳に届き、脳に美しい世界を想起させた。






 「さて、今日はこれでお終いだ。また明日な、アキ」


 アキ。俺の愛称だ。本名は暁洋と書いて、アキヒロ。

 俺には名前を聞いといて、自分は教えてくれないなんて不公平だと思ったが、彼女曰くそれでいいらしい。

 何がいいのか分からないが。

 彼女はすっと立ち上がり、傍らのペットボトルを掴んだ。ちゃぷん、と中の水が跳ねる。


 「なあ」

 「どうした?」

 「それ、どうしていつも持ち歩いてるんだ?」


 ふと、ペットボトルを指差しながら尋ねる。

 彼女はいつも傍らにそのペットボトルを置いていた。片時も離さずに。時折、話の最中にその水を口に含んだりしている。

 しかし、決して俺には飲ませてくれないのだ。


 「……そうだね」


 彼女は徐に蓋を開けると、その水を一口飲んだ。水の零れた口の端を腕でぐいと拭うと、呟くように言う。


 「―――これがないと、私は生きられないから。かな」


 その日、家に帰った後、俺は夕飯を食べながらぼんやりと考えた。

 温かな白米の代わりに、彼女の言ったことの意味を咀嚼する。しかしその意味は掴めないままだ。

 目の前のコップに注がれた水を見ていると、あのペットボトルと彼女の言葉が頭にちらついて離れない。

 結局、そればかりが気になって、俺は好物のハムカツの味すら覚えていられなかった。






 翌日、いつものように岬へ向かい、彼女の話を聞いた。

 今日は海に沈む太陽の話だった。輝きながら、深海で燃え続ける太陽の話。


 「その時だけ、いつもは真っ暗な深海が微かに明るくなるんだ。ぼうっとね。綺麗だよ、とても……

  アキにも見せてあげたいくらいだ」


 まるでその光景を思い出すかのように恍惚と、彼女は語った。望郷の思いが込められたような語り口。

 その横顔を見つめていると、何故だか彼女が水のように溶けて消えてしまいそうな錯覚に襲われた。


 話が終わると、俺は真っ先にペットボトルのことを尋ねた。

 予想していなかったのだろう、彼女が困ったような顔になる。


 「その話はもうしただろう、アキ」

 「だって理解できないんだ。水がないと生きられないのは俺たちも一緒だろ?

  どうしてお前だけがそんなことを言うんだ」

 「……私の言い方が悪かったのかな」


 彼女はもう一度座り直し、ペットボトルを目の前に掲げた。

 跳ねた水がガラス玉のように、きらきらと輝いている。


 「この水じゃないといけないんだ。他の水では、私は生きられない」


 腕を下ろし、彼女はペットボトルを大事そうに胸に抱く。遠い海の果てを見つめながら。

 何か、懐かしい記憶を掘り起こそうとするかのように。


 「……それに、これは時計でもある。この水がなくなったら、私は帰るんだ」

 「どこに?」

 思わず聞き返すと、彼女がふわりとこちらを向いた。静かな水面のような瞳が、戸惑う俺の顔を映している。

 口元に静かな笑みを浮かべ、彼女は呟いた。


 「私の、故郷にさ」




 ―――その後のことはよく覚えていない。適当に別れを告げると、俺は急ぎ足で帰路についた。

 夏だからか、夕方なのに辺りはまだ明るい。

 家に着く前に、近所のコンビニに駆け込む。いらっしゃいませえ、と若い店員のマニュアル通りの挨拶。

 空調の利いた室内は、熱を引かせる筈なのに、背中にはべったりとした汗が伝っていた。

 

 手に取ったのはペットボトルだった。彼女が持っているのとよく似たもの。

 俺は躊躇した。これからやろうとしていることが、酷く重い罪のように思えた。

 しかし、体の動くままにレジに向かい、小銭を置いた時点で、俺はもう戻れなくなってしまったのだった。






 * * *






 その翌日、俺は作戦を決行した。彼女が目を離した隙に、ペットボトルを入れ替えたのだ。

 彼女のと、俺が昨日買ったものと。

 気付かれたら終わりだ、どうしたらいいのかと思うと、脈打つ心臓が今にも口から飛び出しそうだった。


 その日の話はよく覚えていない。

 ペットボトルを鞄の底にしまいこんだ俺は、計画が露呈する前に早くその場を立ち去りたかった。


 「また明日な、アキ」


 何も知らない彼女の笑顔に、後ろめたさは増すばかりだった。けれどもう遅い。

 俺はいつもより重い鞄を引きずるようにして家に向かった。

 まだ計画は、終わっていないのだ。




 誰もいない家はしんと静まり返っていた。両親はまだ帰っていない。遅くなるという話を聞いた。

 薄暗い台所に駆け込み、俺は恐る恐る鞄からペットボトルを取り出した。

 差し込む斜陽で、水が淡い朱色に染まっている。


 俺はあの後、閃いたのだ。水が無くなれば帰ってしまうというのなら、無くならせなければいいのだと。

 毎日、彼女のペットボトルと俺のを交換する。入れ替える度に水を足していけば、彼女の水が無くなることはない。

 馬鹿なことをしているという自覚はあった。愚かな考えだと。してはいけないことだというのも分かっていた。

 それでも俺は、彼女に帰ってほしくなかったのだ。

 もし帰ってしまったら、この先、一生会うことができない気がしたから。


 遂に俺は覚悟を決め、ペットボトルの蓋に手を掛けた。

 汗で滑る手に難儀しながら、それでも必死で、俺は蓋を外すことに成功した。

 ―――しかしその直後、あり得ないことが起きた。


 突然、ペットボトルから勝手に水が溢れ出したのだ。

 ペットボトルを瞬く間に満たしたそれは手首を伝い、腕を伝い、みるみるうちに足元に水溜りを作っていく。


 「何だ、これっ……」


 焦った俺は慌ててペットボトルの蓋を閉めた。しかし水は止まらない。

 出口を塞がれ、行き場を失った水はペットボトルを膨張させていく。

 俺は途端に恐ろしくなり、思わずペットボトルを手から離した。重力に従い、床に落下していく。

 そして床にぶつかるかぶつからないかの時―――ぱん、と小気味よい音を立て、それは限界を迎えて弾けた。

 瞬間、嗅ぎ覚えのある匂いが鼻をつく。

 ―――あの岬の、磯の香り。






 次の瞬間、俺は海の中にいた。






 見渡せば辺りは一面の青。羽根の生えた魚が、俺を掠めて飛んでいく。

 何かが腰に当たって、そちらを見やると、突き出したサンゴが虹色に輝いていた。


 (アキ)


 耳に静かな声が響く。気が付くと、目の前に彼女が佇んでいた。長い髪が水に揺蕩い、海藻のように漂う。

 彼女は酷く、寂しそうな顔をしていた。


 (……さよならだ、アキ)


 それだけ言い残し、彼女は振り向いて俺から離れて行こうとする。待ってくれ。俺は手を伸ばした。

 しかしその手は届くことなく、空しく水を掻く。叫び声は泡となり、ごぽりと破裂音を立てるだけだ。

 ―――その時、不意に目の前がぼんやりと明るくなった。その光はゆっくりと下降していく。海底に向かって。

 それが太陽だと気付いた瞬間、照らされた視界にあるものが映り込んだ。


 (城だ、……)


 古く、苔むした城。海底深く聳え立つ、時を止めて佇む城塞。彼女はふわりと、そこへ泳いでいく。

 そして俺は悟った。あれが彼女の故郷なのだ。今までの話は、決して夢物語なんかじゃなかった。

 サンゴも魚も城も、全ては彼女の実際に見てきたものだったのだ。

 俺は自らの愚かさを呪った。彼女を本来の居場所から引き離し、陸地に繋ぎ留めようとしたことを。

 けれど罪だと知りながら、俺はやってしまったのだ。彼女との別れを早めてしまうだけとも知らずに。


 酸素が欠乏し、薄れていく意識が辿る記憶。岬の防波堤、生温い潮風、俺の隣で微笑む彼女。

 静かな声も、落ち着いた口調も、全て鮮明に思い出せるのに。




 (俺はただ―――君が、好きだったんだ)




 言えなかった想いは泡となって弾け、俺は意識を手放した。






 * * *






 あれから1ヶ月。

 8月の終わり頃、俺はまたいつもの場所へ向かった。

 岬の防波堤。海沿いの通学路を通り、自転車を走らせる。

 けれど、海沿いの道から眺めたそこに、彼女はいない。


 「…………」


 あの日、目を覚ました俺は、部屋のベッドの上にいた。

 台所で気を失って倒れていたのを、両親が運んでくれたらしい。

 ペットボトルも水溜まりもどこにもなく、両親は首を傾げただけだった。

 医者にはただの熱射病だろうと言われたが、本当はそうではないことを、俺だけが知っていた。


 俺は一人、波の打ち寄せる防波堤に立ち、遠く海の果てを見つめる。かつて彼女がしていたように。

 あの日は分からなかったが、今なら彼女が何を見ていたのかはっきりと分かった。


 「……さよなら」


 名も知らぬ彼女。言いそびれた別れを告げ、俺は岬に背を向ける。

 きっと二度と、ここに来ることはないのだろう。

 けれど俺は忘れない。彼女のこと。海底の城や、海に沈む太陽の話。

 その全てを、俺の五感は確かに覚えているから。




 (アキ)




 ふと、波音に彼女の声が聞こえた気がして、俺はもう一度振り向いた。

 けれどそこにはやはり誰もいることはなく、俺の頬を、あの日と同じ香りの潮風が吹き抜ける。

 一夏の夢の終わりを告げるように、遠くでヒグラシが鳴き始めていた。



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