カタルシス
僕は秋奈に手を引かれて店を出た。夜気が身体に染みる。
「こんな時間にケーキ屋が開いてるのかなあ?」
「メロディーよ」
「えっ?」
「駅前のスイーツ喫茶メロディーなら深夜2時まで、やってるのよ」
その店は、仕事帰りのホステス達が利用するので、遅くまで開けているのだと、秋奈は説明してくれた。
「あたし、だんだん腹が立って来た!」
「えっ?」
「あいつよ! ジョージのやつ」
「あっ……うん」
僕は余計なことを言わないように務めた。
「あいつ、もう、サイテーッ! 偽名を使って、いろんな女に手を出してたなんてっ! とんだエロ野郎だわっ! ねっ、そう思わない?」
秋奈は僕の顔を覗き込んで同意を求めた。
「う、うん。まあ……」
「まあ、いいわ。あたし広川秋奈。キャバ嬢やってるの。あなたは?」
「あ、僕は橋本優太。工場に勤めてるんだけど……でも半年ごとの契約だから、正社員じゃないんだ」
「そう。まじめなのね」
秋奈は、青井の不真面目さと対照的だと言いたいのだろう。
それは、そうだ。僕とて、あんな無責任な男と同類に見られては迷惑だ。
だが……彼が、いいかげんだったからこそ、僕は秋奈と出会い、何でもないことが評価されている。
僕は右手にケーキの入った箱を提げ、左手で秋奈と手をつなぎながら店へ戻った。
「ただいまーっ」
秋奈は上機嫌だった。
夏樹さんがハンカチで眼を押さえている。
何があったのだろうか?
彼女は、さっき、マスターの『縁です』という言葉に反応して何かを思い出した風に見えた。
過去の恋愛の古傷を思い出したのだろうか?
だが、女性は現実的だし、男のようには過去の未練を引きずらないと聞いたことがある。
それは個人差もあるだろうから、一概には決めつけられないが……彼女には余程、辛い何かがあるのだろうか?
若い女性が泣く理由とは恋愛がらみの何かに違いないと察しはつく。
「さあっ、食べましょ!」
秋奈はマスターからケーキ皿を出して貰い、取り分けて配った。
「無理に忘れることはないのです」
マスターが諭すように言った。
「どうしても忘れられないとすれば、深い縁があるのです。そうした関係をソウルメイトと言うのです」
「ソウルメイト?」
夏樹は顔を上げてマスターを見ている。
「そう。魂の伴侶です」
「たましいの……」
「彼には、家庭があり家族がある。家族を幸せにする責任がある。それこそ、深い縁で出会い、結ばれた関係です。それを断ち切ってまで、あなたとの恋を実らせる訳には行かないでしょう。そんなことをすれば社会的な信用を失うことになります」
夏樹は、家庭持ちの男との恋愛に苦しんでいるらしい。
「それは、あたしも、わかってるんです。だから別れました」
「あなたと彼とは遠い昔に……何百年も前に同じ時代に生まれ、夫婦として暮らした間柄であったかも知れません。或いは外国に生まれ、嘗て恋人であったかも知れない。それは誰にも解らない。もしかすると……」
「もしかすると……?」
「遠い別の星で苦楽を共にした間柄だったかも知れません」
僕は驚いた。ソウルメイトだの、遠い別の星で生まれたなどと、考えた事もない話だからだ。
夏樹さんも面食らっているに違いないと思い、眼を遣ると彼女は、深く頷いている。
「縁があるから、また出会ったのです。そんな彼と逢えないのは悲しいでしょう。苦しいと思います」
マスターは何を言ってるのだろう。そんな言い方をすれば彼女はもっと悲しむじゃないか。
「でも、大丈夫。時が解決します。いずれ時が過ぎれば、あの日、あの頃は、悲しくて、やりきれなかった。でも、それを乗り越えて今の自分があるのだと懐かしむようになります。しかし、そうは言われても、今の苦しみは簡単には癒やされないでしょう。だから……」
「だから……?」
「日記を書くといいでしょう。今の自分の胸の内を吐き出すのです」
「日記?」
「そう。日記です。逢えなくて、こんなにも淋しい。悲しい。うらみつらみでも、恋心でも、なんでもいい。心の感じるままに綴って行けばいいのです」
マスターは、夏樹さんの前にグラスを置いて水を注ぎ始めた。
何をするつもりなのか?
マスターはグラスに水を注ぎ続けた。
あっ! こぼれるっ!
マスターはグラスから溢れさせてから水を注ぐ手を止めた。
「忘れられない想いを抑え込み、つらい気持ちを、こらえるのではなく、思い切って溢れさせてしまうのです」
なるほど。そういうことか。僕は、その解りやすい例えに納得した。
「そうして空へ呼びかけるのです。あなたの呼びかけを彼は感じ取ります。魂の呼びかけは通じるのです。いや、あなたの悲しみを彼は既に解っています」
「……わかっている?」
不意に夏樹さんの眼からぽろぽろと涙が溢れた。
「それでいい。……思いきり泣いてしまいなさい。あなたの苦しさは、他の誰にも解ってはもらえない。当然です。しかしソウルメイトの彼には届いているのです」
マスターが、そう言うと、夏樹さんは洗面所へ駆け込んだ。
きっと彼女は洗面所の中で思いきり泣いて、化粧を直して来るのだと察しがついた。
「あれでいいのです。カタルシスと言うのです」
「カタルシス?」
「そう。感受性の度合いは人それぞれです。忘れられない事が、いつまでに解消するとは、一概には言えません。けれども、そうしていれば、いつの日にか必ず心に芽生えるものがあります。それまで……要は気が済むまでです」
気が済む?
そうか。そう言えば、美春さんは『未練がある訳じゃないの。とっちめないと気が済まないのよ』と言っていた。
成り行きの結果ではなく、気が済むか済まないかの問題なのだ。
それにしても、あんな事を言いながら彼女は、青井を赦して縒りを戻している。結局、青井と美春さんには深い縁があったのだろう。
ほどなく戻った夏樹さんにマスターは告げた。
「あなたは、この世では、別の誰かを幸せにする役割があるのだと、私は思います」
そう言って、マスターは何かを作り始めた。
「別の誰か?」
夏樹さんは怪訝そうに小首を傾げた。
「そう。まだ見ぬ誰かです。そして、その男は、あなたの助けを必要としている。男が一人前になるには母親の手を離れても尚、必ず女性の力が必要なのです。男を育て、能力を発揮させるのは女性の役割です」
「役割?」
夏樹さんはマスターの背中に問いかけている。いや、それは問い返しではなく、そうかも知れないとの肯定の響きだった。
夏樹さんの瞳に力が宿ったと僕には思えた。