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逃げる男



「はい? ああ、青井さん。ええ、覚えていますよ。……はい、開けています」



 客からの問い合わせのようだ。



「えっ? 近くに? すぐに? ……そうですか。それはありがたいですね。お待ちしております」



 電話は、ほどなく切れた。



 女から逃げている男、青井が間もなく現れるらしい。



 マスターは棚からボトルを取り出した。



「ツケを払いに来てくれるのです。街を離れるそうです。まあ、いずれ、こうなることは解ってました」



「えっ?」



「彼は苦労性だ。幾人かの女性と同時に交際して行き詰まっている」



 マスターは、別のボトルを取り出して何かを作り始めた。



「彼女が何人も居るんですか? へーっ、羨ましい話ですね」



「それは、どうですかな?」



「だって、毎日、違う女と付き合えたら楽しいでしょう」



「それは最初だけです。交際せずに一回だけの関係ならね」



「一回だけって……」




「例えです。その場限りの遊びなら楽しいでしょう。しかし、女性と関係を持って交際を続けようとすれば大変なことになる」



「三角関係ってやつですか。それは面倒ですよね」



「来たようです。今の話は、ご内聞に」



「これは、サービス」と言って、マスターはカクテルを作ってくれた。




 ドアがギイと鳴り、その男は現れた。



 ひょろっとした体格の、のっぺり顔だった。スーツを着てはいるが、着こなしが崩れて、何となく、ぎこちない感じだ。胸ポケットに覗かせたハンカチもわざとらしい。



 さぞかし、イケメンだろうと想像していたのだが、意外なほど普通の面相だった。茶髪で色白なら、この程度でも、女達はイケメンと認めてしまうのだろうか?



 この程度の男と比較するなら、僕は負けていないだろうと感じた。



「あっ、しまった。電池切れだ。マスター、電話を借ります」



 青井は先にツケを清算してから、店の受話器を手にした。



 彼は……青井は、この時、ことの重大性を解っていなかった。




「あ、夏樹さん? ちょっと急な話だけど、イタリアへ出張することになっちゃって……えっ? どこって……だからイタリア。えーとね、あれは確か……パリじゃなくて……そ、そう、そこ、フィレンツ」



 青井は、しどろもどろになっている。



「……いや、それが、しばらく帰れそうにないんだ。うん、会えなくなるのは、オレもつらいけど……」



 よく、そんな、でまかせを……。



 そんなセリフを傍で聞かされて、僕は胸くそが悪くなった。



「これまで、ありがとう……えっ? いや、もうすぐ電車に乗るので。明日、早いフライトだから、空港近くのホテルに前泊するんだ。だから、そんな時間も……うん、そんな訳で、サヨナラ」



「あ、秋奈? 急な話なんだけど、イタリアへ出張することに……うん、フィラメントへ……えっ? いや、違ったフィラレンツ」



 青井は、あまり頭は良くないようだ。外国名を出すなら、調べてからにすりゃあいいのに。恐らくエロ漫画しか読んだことがないのだろう。



「冬美さん? 急な話だけど……」



 青井は次々に女達へ別れを告げている。



 マスターは聞こえぬ振り、知らぬ振りで、コーヒーを飲んでいた。



 マスターも僕と同様に、内心で呆れているに違いない。



「マスター、マティーニを下さい」



 青井が注文した。


 青井は、迷わずにマティーニの名を挙げた。マティーニがカクテルの代表格であることぐらいは僕でも知っている。



 恐らく彼は、女性を口説く舞台装置としてバーを利用し、一つ覚えのマティーニを注文しているに過ぎないのだろう。



 マスターはカクテルを作り始めている。



 僕は、当たり障りのないことを訊いてみた。



「マスター、材料は何ですか?」



「ドライ・ジンとドライ・ベルモットです。4対1の割合で混ぜるのです。標準は3対1で作ります。これ以上ドライジンを多くした場合はドライマティーニと呼びます」



 マスターは、それらをミキシング・グラスに入れてステア(攪拌)した後、カクテル・グラスに注ぎ、最後にオリーブを飾った。



 淀みなく流れるような手さばきで、マティーニが青井の前に置かれた。



 この間に、マスターは「ベルモットとは、白ワインを主体として、ニガヨモギなどの香草やスパイスを配合して作られるフレーバードワインです。イタリア発祥のスイート・ベルモットとフランス発祥のドライ・ベルモットとがあるんです」と説明してくれた。



 青井が現れる直前に作ってくれたカクテルは、マティーニだった。



 つまり、マスターは青井から電話があった時点で、彼がマティーニを注文すると読んでいたのだ。



 プロの仕事だ!


 マスターの手際の良さは、人間観察と周到な準備に裏打ちされていたのだと改めて思い知った。



 青井は、ふうっと、ため息を吐きながら汗を拭っている。



 僕は、その姿を見て、【青息吐息】という言葉を連想して吹き出しそうになった。



 まるで、その言葉は眼前の彼の為に考案された言葉のように思えたからだ。



「マスター、この店に最初に来たのは、いつでしたっけ?」



 青井は、いくらか落ち着いたせいか、思い出話を始めた。



「初めて来店されたのは、去年の年明け早々でしたね」


「そうか、もう一年になるんですね。マスターには、お世話になりました。いろいろあって、ちょっとドジっちゃって……美春に秋奈と居るところを見られちまったんですよ。もう、この街には……」



「寂しくなりますね。まあ、仕方がないでしょう。ともかく、そう決めたのなら早い方がいい」




 この時、彼はマスターの言葉の意味を訊くべきだった。

 それからも、彼は思い出話を続けている。



 マスターは、時計に眼を遣り「大丈夫ですか?」と訊いた。



「何がです?」



 マスターは、「都会に住む女性を甘く見ると大変な事になる、早く逃亡した方が良い」と告げたのだ。



「何故ですか?」


「あなたは、店の電話を使ってしまった。恐らく彼女達は、こちらへ向かっているでしょう」



「えっ? そうか! しまった!」



「先ほど美春さんが、あなたを捜して、ここへ来ました」



「えっ! そうだったんですか!」



 青井の顔色が変わった。その眼は、明らかに怯えている。



 店の前の路地先から車の停まる音が聞こえた。



 都会の女性は着信履歴から電話案内で照会して店を特定することなど朝飯前なのだ。



 そうして彼女達は不審を感じたら即座に行動に移すことを僕は知った。



 マスターの緊張した表情を見て、青井は更に青ざめている。



 ギイと音を立て、ドアが開いた時、僕の背筋は凍った。




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