いまさら必要ございません
嫌な言葉ほど、よく響く。
「耳の役は要らない」
合わせ台の縁を弾きかけたベレニケ・モートンの指が、つ、と止まった。背中側で落とされた声は低く、けれど楽器部屋の端まで不足なく届いた。たいへん結構。ご本人の耳だけは、ずいぶん働き者らしい。
「毎朝、弦の数と締める順を記してあるのでしょう。ならば仕事は再現できます。人ひとりを、その者にしかできない役へ縛り続けるのは能率が悪い」
エラスムス・ヴォースは、ベレニケには告げず、奥方アルシノエ・ドルーリーに説明していた。彼女の背中を家具とでも思っているらしい。椅子ならば、さぞ座り心地の悪い十一年である。
「ベレニケに任せていたことは知っていますけれど」
「任せきりだったからこそ、仕組みに直すべきです。弦数と人手が揃えば滞りません」
アルシノエは返事をしなかった。その代わり、判断を預けられたエラスムスの靴が一歩、合わせ台へ近づいた。
「本日分までで結構です。明日からはメイナードに引き継がせます」
ようやく背中ではなく本人へ届いた言葉に、ベレニケは振り向かなかった。柄の擦れた音叉を親指で一度だけなぞり、朝の冷えを含んだ弦の前へ戻す。
一の弦を弾き、二の弦はまだ触らない。窓際の小さな竪琴を先に鳴らし、その響きが落ち着いてから壁側の楽器へ移る。昨日は逆だった。昨日と今朝とでは湿りが違うのだから、同じ順で済むはずがない。だが、なるほど、数は同じだ。人の指も十本ずつ。世界とはじつに数えやすい。
「承知しました」
返した声は、音叉よりよほど狂いがなかった。
「念のため申し上げますが、今朝は奥の二挺を最後になさってください。夜半に冷えましたので」
「その判断も表へ書いてください。属人的な言い回しではなく」
エラスムスの語尾は、鋏で切った糸のように短い。反論が来ないと知っている者の、たいへん景気のよい切れ味だった。
ベレニケは紙へ書いた。奥の二挺、最後。理由、夜半の冷え。さらに弦の張り、窓の開き具合、火鉢を入れる時刻まで添える。耳を紙へ移せるというなら、ぜひ引っ越してもらおうではないか。家賃は取らない。
書き終えると、彼女は合わせ台の縁を指で軽く弾いた。乾いた木の音が返る。その音だけを確かめてから、今日の仕事を続けた。
* * *
翌朝、十一年間貼り替えてきた一日分の紙は、ベレニケが部屋へ入る前に剥がされていた。糊の跡だけが壁へ薄く残り、その上からメイナード・クレスが大きな弦数表を貼っている。
「こちらのほうが、ひと目で分かりますよ。何本あって、何人で締めればいいか。家令様のおっしゃるとおりです」
メイナードは表の端を掌で叩いた。朝の順を書いた紙を捨てた手で、朝ごとに変わらない数をありがたがっている。数字は逃げない。音のほうは逃げ足が速いのだが、そこまでは表に書く欄がなかった。
「見事に数えられておりますね」
「でしょう? これなら誰にでもできます」
「ええ。数えるところまでは」
メイナードは褒められた顔をした。たいへん幸せな耳である。皮肉が入る隙間もない。
ベレニケは机の引き出しから、小さな紙を三枚出した。雨が続く週には、窓際の楽器を先に鳴らさないこと。弦を納めてもらった直後は、締め具を急いで回さないこと。それぞれ一行だけ書き、出入りの小僧に近隣三軒へ届けるよう頼む。
「もうこちらのお役ではないのでしょう?」
紙を見たメイナードが、軽い調子で言った。
「昨日までは、わたくしの役でした。昨日までに気づいたことを、昨日へ置いてはゆけませんので」
「でも明日からは表があります」
「まあ、心強い」
それで会話は終わった。表の大きさだけなら、たしかにたいそう心強かった。壁が少し狭く見えるほどである。
アルシノエの居間へ呼ばれたのは、その日の午後だった。エラスムスは彼女の右手に立ち、変更は滞りなく済んだと報告した。ベレニケがまだ部屋にいることも、明日まで勤めることも、彼の口からは家具の移動ほどの重さで出てくる。
「長く務めてくれたことには礼を申します」
アルシノエは社交の定型どおりに言った。彼女が知らなかった仕事を、知っている形で労おうとしたのだろう。たいへんな難事である。音より難しいかもしれない。
「恐れ入ります、奥方様」
「今後について、何か望みはありますか」
十一年前なら、あった。昨日の朝までなら、たぶんまだあった。けれど、剥がされた紙の跡を一度見てしまえば、望みを貼り直す糊までは持ち合わせていない。
「ございません」
部屋へ戻り、ベレニケは大きな弦数表の下を通った。柄の擦れた音叉を取り上げると、冷たい金属が掌へ馴染んだ。自分の耳を置いてゆけと言われたようなものだが、置き場所の札まで用意されているわけではない。
「いまさら、必要ございませんでしょう」
音叉へ言い聞かせると、返事の代わりに細い音が立った。耳の役を外された者へ届くには、十分すぎるほど澄んでいた。
* * *
最後の朝も、ベレニケはいつもの時刻に楽器部屋へ入った。手抜きをして別れを濁らせるのは趣味ではない。腹立ちに弦を一音狂わせて去るなど、相手より先に自分の耳が許さない。職人気質とは、こういう時だけ少々腹立たしい。
窓の留め金を確かめ、火鉢を遠ざけ、一本ずつ響きを拾う。高い弦をわずかに緩め、低い弦は指の腹で二度鳴らした。最後の一挺まで終えると、楽器部屋は何も失われていない顔で朝日に光った。部屋というものは薄情だ。人が出てゆく日にまで、床板ひとつ軋み方を変えない。
ベレニケは十一年分の控え帳を開き、季節ごとの合わせ順を一枚の表へ書き写した。冷えた朝、雨の翌日、客の多い日、火を長く焚いた夜の次の日。例外も余白へ詰め、どの弦を何番目に聞いたかまで残す。
もちろん、今日と同じ朝はひとつもない。表は過ぎた朝の標本だ。けれど先方が欲しいというのだから、十一年分、骨まできれいに並べて差し上げよう。読めるものなら、どうぞ。
「ずいぶん細かいですね」
受け取りに来たメイナードが紙を覗き込んだ。
「細かくなければ、お役に立ちませんから」
「これだけあれば、本当に誰でもできそうだ」
「そうでございますね」
ベレニケは微笑んだ。嘘は言っていない。メイナードがそう思うことについては、まったくそのとおりである。
表を合わせ台の中央へ置き、締め具を拭いて棚の定位置へ戻す。柄の擦れた音叉も布で磨き、十一年前に持参した革袋を開いた。所定の場所へ戻すだけだ。あの頃から、この一本の所定は彼女の袋の中だった。
指が止まった。
朝日を受けた柄は、親指の当たるところだけ色が薄い。十一年で削れたのは木の柄だけではないはずなのに、目に見えるものはそれしかなかった。
「ベレニケ様?」
メイナードの声にも、彼女はすぐ返さなかった。音叉を合わせ台へ横たえ、指先を離す。部屋のどこにも、代わりになる音は立たなかった。
「わたくしは、これを自分の音だと思っておりました」
誰へともなく言ってから、ベレニケは音叉を革袋へ収めた。軽口を足せるところではなかったし、足せば十一年が安くなる。
アルシノエには一礼をした。エラスムスにも、最後まで同じだけ頭を下げた。彼は受け取った表をめくりながら、「これで引き継ぎは完了です」と言った。
「はい。完了いたしました」
今度こそ、それは彼女の側の結論だった。
扉を閉める前に、合わせ台の縁が目に入った。いつもの指は動かなかった。弾けば答える木を、答えさせる必要がもうなかった。
ベレニケは十一年勤めた部屋を出た。呼び止める音は、ひとつもなかった。
* * *
夏は、驚くほど何も起こらなかった。
客を招いて楽器を鳴らす季節ではなく、楽器部屋の弦は大きく乱れなかった。メイナードは弦数表どおりに人を割り振り、過去の合わせ表から似た天気の日を選んだ。音を出さなければ、音の不具合は実に発見されにくい。これは世紀の大発見として壁へもう一枚貼ってもよい。
エラスムスは出入りの商人たちへ、楽器部屋を仕組み直した成果を話した。順を書いた紙を自分で剥がし、代わりの弦数表を示してみせる。
「特定の者の勘へ依存していた作業を整理しました。夏の間、何の問題も出ておりません」
商人たちは一礼した。弦を納めるザルマン・トレッドだけが、表ではなく、壁に残った糊跡を見た。
「今朝の順は、どこにある」
「季節ごとの表へ統合しました。毎日貼り替える必要はありません」
「そうか」
ザルマンはそれ以上言わなかった。商いの場で結論の出ない問答を続けるほど、暇を持て余してはいない。
エラスムスは夏の静けさを、自分の差配が正しかった証拠として数えた。鳴っていない楽器まで、自分へ賛成している勘定だった。
(音なんぞ、表があれば片づく——)
九月になっても、大きな不具合は報告されなかった。アルシノエは彼の報告を受け、滞りがないなら任せると頷いた。エラスムスは一礼し、ベレニケを外した変更は完全に済んだものとして控え帳を閉じた。
閉じられた控え帳の外で、雨だけが少しずつ増えていった。
* * *
ザルマンがベレニケを訪ねてきたのは、雨上がりの朝だった。彼女は借りた小部屋の卓へ古い小竪琴を置き、仕事とも呼べない頼まれものの弦を見ていた。報酬はパン二つ。うち一つは固い。なかなか先行きの歯ごたえがある。
老人は挨拶のあと、革包みを卓へ置いた。中には太さの違う弦が三本だけ入っている。
「どの家からでございますか」
「家からじゃない」
ザルマンは椅子にも座らず、ベレニケを見た。
「おれたちはあの家に売ってたんじゃない。あんたの耳に売ってたんだ」
短い言葉だった。けれど、十一年分の合わせ表より読み違えようがない。ベレニケは革包みへ伸ばした指を引き、代わりに卓の縁を弾いた。
こ、と小さく返る。借り物の卓も、鳴らせばきちんと答えた。
「でしたら、困りました。わたくしはいま、家を持っておりません」
「耳に屋根はいらん。仕事場なら、空いてる部屋を知ってる」
「お代は」
「最初の仕事を終えてから払え。払えなければ弦で取る」
「それでは、ザルマンさんばかり儲かります」
「四十年商人をやってる」
なるほど、強い。ベレニケは革包みを開き、三本を順に爪で弾いた。音が立つ。久しぶりに、自分へ向けて渡された音だった。
その日の午後、最初の依頼人が小さな竪琴を抱えて現れた。以前、雨の続く週の言伝を届けた三軒のうちの一人だった。
「先日の紙に助けられました。ドルーリー家へではなく、ベレニケに頼みたいのです」
「わたくしに、でございますか」
「はい。次の集まりまで、この子の音を預かってください」
竪琴を差し出す両手に迷いはなかった。家名も紹介状も出てこない。ベレニケは受け取る前に、掌を裙で拭いた。急に来た出世は、手汗に弱い。
「承ります」
その一件から、残る二軒も彼女を名指しした。修道院からは、礼の言葉を先に置いた簡潔な使いが来た。古い弦楽器が朝の祈りに合わない、ベレニケに見てもらいたい。それだけだった。それだけで十分だった。
仕事場として借りた部屋には、窓と卓と椅子があった。椅子! 立ち通しでパンをかじらずに済む、たいへん豪奢な設備である。最初の報酬を受け取った朝、ベレニケは豆のスープを買った。
湯気の立つ椀を卓へ置き、椅子へ腰を下ろす。立ったまま急いで流し込まず、両手で包んだ。豆は柔らかく、塩気は少し強かった。固いパンを浸すと、先行きまで急に食べやすくなった。
* * *
冬の集まりの日、ドルーリー家の若い衆は弦数表の前へ並んだ。雨は五日続き、部屋の隅には冷えが残っていたが、表にある弦の数は夏と同じだった。だからメイナードは、夏と同じ人数へ、同じ数ずつ割り振った。
「三本締めたら次へ。表の順を違えるな」
締め具が回る。一本、二本、三本。壁側も窓際も同じだけ、同じ力で締められた。十一年分の合わせ表から雨の日の欄も選ばれていた。紙にあるものは、すべて揃っている。耳以外は。
招待客が席につき、アルシノエの合図で最初の弓が動いた。中央の音は、ひとまず形になった。次の小節で窓際がわずかに低く落ち、壁際の弦が引かれて沈む。
ひとつが狂うと、その隣が正しくても濁って聞こえる。若い衆は慌てて中央を締めた。すると端がさらに沈んだ。音は部屋の両端から濡れた裾を引きずるように重くなり、旋律の足首へ絡みついた。
誰も怒鳴らなかった。
一列目の客が扇を閉じた。隣の客は浮かべていた社交の笑みをそのまま消し、曲が終わる前に楽器から目を外した。最後の音が床へ落ちると、拍手は三人分だけ鳴り、すぐ止んだ。
「すぐに合わせ直します」
エラスムスが進み出たが、招待客たちは次の約束があると言って立った。怒声より丁寧な別れのほうが、よく切れることもある。扉は静かに閉まり、戻ってくる理由まで一緒に持ち去った。
アルシノエは弁解を始めかけ、口を閉じた。それから楽器部屋の中央で、客ではなく若い衆へ向き直る。
「わたくしが、任せたまま確かめませんでした。この場の責任は、わたくしにあります」
「奥方様、これはたまたま湿りが——」
「エラスムス。楽器部屋から出なさい」
彼は一礼しようとして、半端な角度で止まった。アルシノエはもう見ていなかった。沈んだ弦を一本ずつ外させ、次の集まりを取りやめる手配を始めた。
翌週から招きへの返事が減った。弦を納めに来た商人の前で、メイナードは「表を貼れと言ったのは家令様です」と説明した。夏には自分の掌で叩いていた表が、冬になると急に他人の壁になったらしい。紙は便利だ。責任まで薄く平らにできる。
その日の音は、離れた場所にも届いた。
ベレニケは自分の仕事場で、修道院から預かった楽器を卓へ置いていた。風向きが変わった一瞬、古巣の合奏が窓を越えて細く流れ込む。低く、重く、端から沈んでいる。あの部屋の冷えまで、十一年聞いた耳には分かった。
卓の縁へ伸びかけた指が止まった。
弾けば、この卓は答える。答えれば、彼女の手は次に何をすべきか知ってしまう。だが、その音はもう彼女が預かったものではない。
「数は合っております。ええ、数だけは」
十一年を表へ移せると思った勘定は、冬の湿気込みで赤字だった。よろしい。たいへんよろしい。
ベレニケは古巣の音へ背を向け、修道院の楽器を鳴らした。こちらは彼女の名で預かった音だ。指は迷わず、今朝の冷えに合う弦を選んだ。
* * *
アルシノエからの手紙は、冬の終わりに届いた。
社交の定型は最初の二行で尽き、その先は「わたくし」が続いた。わたくしが仕事を知らなかった。わたくしが差配と技量を区別しなかった。失った信用の始末は、わたくしがする。戻ってほしいとは、どこにも書かれていなかった。
ベレニケは返事を書かなかった。手紙は破らず、仕事の控え帳とは別の引き出しへしまった。それが許しなのか、保留なのか、ただの整頓なのかは、本人にも決める必要がなかった。
三日後、客の途切れた夕刻を選んで、エラスムスが来た。
帽子を両手で持ち、戸口に立っている。楽器部屋ではよく響いた声が、今は帽子の内側へ落ちそうなほど低い。
「モートン様。お時間をいただけますでしょうか」
「ご依頼でしたら、順に承っております。こちらへお名前を」
「依頼、というより……お願いに参りました」
不慣れな敬語は、締めすぎた弦のように硬かった。ベレニケは椅子を勧めず、自分も立ったまま待つ。客なら座ってもらう。客でないなら、話は短いほうがよい。
「楽器部屋の音が戻りません。表も、控え帳も、あなたが残したものはすべて確認しました。しかし、雨の日と晴れの日で、どれを選ぶべきかが……」
「表にございませんでしたか」
「候補はあります。ですが、あの部屋で正しいものを選べるのは」
エラスムスは帽子のつばを持ち直した。夏には商人の前で剥がしてみせた順の紙を、今度は折り畳んで持ってきている。彼はそれを広げかけ、やめた。
「あなたにしか戻せない」
耳の役を要らないとした本人が、とうとう唯一の耳を証明した。なんとも念入りな仕事ぶりである。十一年かけたこちらより、ひと冬でずいぶん立派な結論へ着いた。
「楽器部屋へ戻っていただけませんか。待遇については、奥方様へわたしから——」
「エラスムス様」
呼称は変えなかった。近づける理由も、遠ざけるために乱す理由もない。
「わたくしは、あの部屋に知っていることをすべて置いてまいりました」
「だからこそ、それを扱えるあなたが必要なのです」
「わたくしは今、ほかの方々から音を預かっております」
「一時的にでも構いません。まず一度、戻していただければ」
「戻したあとは、また表へなさいますか」
エラスムスの口が閉じた。返事の代わりに、帽子のつばだけが少し歪んだ。
ベレニケは扉を開けた。追い出すほど荒々しくはなく、引き留めるほど曖昧でもない角度である。
「いまさら、必要ございませんでしょう」
彼は何か言いかけたが、音にはしなかった。帽子を胸元へ持ち直し、一礼して廊下へ出る。扉が閉じても、ベレニケはその背中を見送らなかった。
翌朝、窓辺には柄の擦れた音叉が一本、朝日にまっすぐ立っていた。ベレニケは椅子へ腰を下ろし、温かな豆のスープの椀を両手で包む。今日はパンも柔らかい。出世とは、案外こういうところへ出る。
戸口から声がした。
「失礼いたします。ベレニケにお願いしたい楽器があるのですが」
「はい、ただいま」
椀を置き、彼女は立ち上がった。新しく預かる楽器が卓へ置かれる。ベレニケの指が卓の縁を弾くと、明るい木の音が、すぐに返った。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。




