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追放された聖女は辺境で「ただの私」になりました

掲載日:2026/04/07

【一 追放された夜、無能の烙印】


 七年間の痛みを、今日、終わりにしよう。


 大理石の床に冷たい反射光が落ちる玉座の間に、重苦しい空気が満ちていた。


 「リーリア・ルーシェント。今日この時をもって、お前を聖女の任から解き、王宮から追放する」


 アルヴィン王太子の声は硬かった。だが、その宣告を告げる直前、彼の視線がほんの一瞬だけリーリアの痩せた肩から逸れ、玉座の脇に置かれた父王の空の椅子へ向かったことに、気づいた者はいなかった。

 病に伏して一年。王の不在が長引くほど、貴族たちの間に走る亀裂は深くなり、辺境の領主は勝手に動き始め、民の不満は日に日に膨れ上がっていた。

 アルヴィンは、目に見える奇跡を今すぐ民に示さなければ、この国は内側から崩れると確信していた。


 十二の歳。まだ家族の温もりが恋しい年齢で、リーリアは「聖女の魔力適性がある」という理由だけで、実の母から引き離されて王宮へ召し上げられた。

 それから七年間。彼女は王宮の地下深くにある、陽の光すら差さない冷たい神殿で祈り続けてきた。王国全土を覆う大結界を、たった一人で維持するためだ。


 魔力を絞り出すたびに骨がきしむような激痛が走り、時には吐血した。一日の大半を祈りに費やし、食事も乾燥したパンと水くらいしか喉を通らず、肌は青白く透き通り、同年代の貴族令嬢たちのように化粧や着飾る余裕など一切なかった。


 王宮に上がったばかりの頃、一つ年上のアルヴィン王太子は「君のおかげでこの国は安泰だ。勇敢な我が国の小さな盾よ」と微笑みかけてくれたことがあった。

 リーリアはその言葉だけを心の支えにして、どんなに苦しくても耐え抜いた。神殿の冷たい石床で凍える夜も、国を守る盾となることが自分の生きる絶対の義務だと信じ、一度も音を上げたことはない。

 誰も彼女の日々の激痛を知らなくても、それでよかったはずだった。


 しかし、その絶え間ない自己犠牲の代償は、やがて「結界を張る以外に何もできない無能で暗い女」という評価に変わっていった。

 国が平和になればなるほど、人々の目には結界の恩恵が見えなくなり、当然のものとして扱われるようになったのだ。


 「結界を維持するだけで精一杯で、民の前で奇跡の一つも起こせない。今年は天候不順で不作が相次いでいるというのに、豊穣の祝福すらできぬとは。それでお前は聖女と言えるのか。だが、新たな聖女であるセレーネを見よ」


 王太子の隣で、上質な絹のドレスを着たセレーネが一歩前に出た。彼女の周囲には光の粒子が舞っている。

 セレーネは一瞬だけ、胸元で脈打つ魔道具に指先を添えた。その仕草には怯えではなく、偽物の光であろうと最後まで「聖女」を演じ切るという冷えた覚悟があった。


 セレーネが指を鳴らすと、玉座の間の隅にあった枯れた花瓶の薔薇が一瞬にして蕾をつけ、大輪の花を咲かせた。

 謁見の間に居並ぶ貴族たちが感嘆の声を漏らし、こぞって拍手と賛辞を送る。


 リーリアは静かにそれを眺めた。

 セレーネの光は、彼女自身の力ではない。恵まれた貴族の実家が用意した、古代遺跡の特級魔道具が放つ、一時的で派手な光だ。

 だが、日々の苦しい生活に喘ぐ民や、早急な成果を求める貴族たちにとって、地味で目に見えない結界の恩恵よりも、目の前で花を咲かせ、病を一瞬で治してみせる分かりやすい奇跡のほうが、よほど求められる「正解」だった。


 「殿下」


 リーリアは顔を上げ、まっすぐにアルヴィン王太子を見据えた。


 「あの光は魔道具の力に過ぎません。大結界の維持という莫大な魔力循環には耐えられません。私を聖女の任から外せば、いずれ結界は歪み、必ず崩壊します。それは国そのものの死を意味します」


 アルヴィンの顎の筋肉が、一瞬だけ引き攣った。七年前、まだ幼かったリーリアを地下神殿へ送り出す日、自分が何と言ったか覚えていないはずがない。

 だが、彼はその逡巡を奥歯とともに噛み殺した。


 「黙れ。己の無能を棚に上げ、国を救う真の聖女を貶めるか」


 「私も痛ましい判断はしたくない。だが、陰気な祈りしかできぬお前を、いつまでも王宮に置いておく余裕はこの国にはもうないのだ。着の身着のままで王都から出て行け。二度と戻るな」


 セレーネが「殿下、あまりお怒りにならないでください。彼女も必死なのです」と同情を装いながらすり寄り、王太子は「お前は本当に優しく尊いな、セレーネ」と深く頷く。


 その茶番を見つめながら、リーリアの胸の中から、すとん、と何かが抜け落ちた。


 七年間の痛みが、苦しみが、すべて無意味だったと宣告された。怒りよりも先に、激しい虚無感と、そして奇妙な解放感が押し寄せた。


 同時に、冷え切った決意が明確に形を作った。やるべき警告はすべてした。彼らは自らの意志で目に見える奇跡を選び、私を捨てたのだ。ならば、もう二度と戻るまい。


 「……承知いたしました」


 リーリアは、一度だけ深く、臣下としての最後の一礼をした。


 「私はこれより王宮を去ります。どうか、皆さま健やかにお過ごしください」


 振り返ることなく、ざわめく玉座の間を後にする。

 その背中を、アルヴィンはしばらく無言で見つめていた。隣のセレーネが腕を取るまで、彼は石像のように動かなかった。


 自分の小さな私室に戻り、粗末な布の背嚢を引きずり出した。中に入れたのは、平民の着替えが二着と少しばかりの路銀、そして亡き母が遺した手書きの古い薬草図鑑だけだ。

 金糸で刺繍された重く豪奢な聖女の法衣は、綺麗に畳んで卓の上に置いていく。


 最後に一つだけ持ち出したのは、神殿の中庭の誰にも見向きもされない隅に咲いていた、白薄荷の種だった。母が一番好きだった花。

 リーリアが神殿に入る日、母が「寂しくなったらこの花を育てて見なさい」と泣きながら持たせてくれたものだ。皮袋に入れて胸元にしまうと、母の腕の中のようにかすかな温もりが伝わった。


 裏門から出ると、冷たい春の風がリーリアの銀色の髪を揺らした。

 目指すのは、辺境の街ヴェルデン。母がかつて腕のいい薬草師として暮らしていたという、王都から遥か北へ離れた土地だ。


 胸の奥で、行き場を失った莫大な聖女の力がまだ燃えるように脈打っている。けれど、リーリアは心の中でそれに分厚く、頑丈な蓋をした。

 もう、国を維持するための「便利な機能」として生きるのはやめる。私は一つの道具ではなく、血の通った人間なのだから。


 私は今日から、聖女ではない。「ただの私」、リーリアになるのだ。



【二 不器用な庇護者と土の匂いのする日常】


 ヴェルデンに着いたのは、出発から丸一週間が経過した頃だった。


 馬車を使う資金などなく、すべて自分の足で歩き通した旅は過酷を極めた。雨風をしのぐ場所もなく野宿をし、獣の遠吠えに震え、王宮では口にしたこともない固い干し肉を噛みちぎりながら、ただひたすらに北を目指した。

 足にはいくつもの豆が潰れては血を流したが、そのたびに「私は生きている」と強く実感した。


 王都から百五十里離れた辺境の街ヴェルデンは、三十ほどの石造りと木組みの家が身を寄せ合う、素朴な集落だった。

 王宮の透き通るような大理石や硝子の華やかさはないが、湿った土の匂いや、各家屋から立ち上る食事時の薪の匂い、遠くから聞こえる清流のせせらぎが、リーリアの強張った心を少しずつ解きほぐしていった。


 街外れにある古い薬草園の跡地を生活の拠点に定めた。隣家に住まう恰幅の良い老婆・マルタから快く「好きに使いな。どうせずっと空き家だったんだから」と許可を得て、リーリアの泥にまみれる新しい日々が始まった。


 長年放置された庭には、自身の背丈まで生い茂った雑草が壁のように立ちはだかっていた。毎日朝から晩まで、その雑草を根気よく抜き、崩れた石垣を一つ一つ拾い集めて積み直し、泥と落ち葉で完全に詰まっていた水路を素手で整えた。


 最初の数日は食事を作る余裕すらなく、井戸水を飲んで泥だらけのまま倒れ込むように眠った。

 見かねた隣人のマルタが、湯気を立てる温かいスープと柔らかいパンを鍋ごともってきてくれたことがあった。


 「あんた、若いのに随分と無理をするねえ。シャロンの娘さんなら私の孫みたいなもんだ。遠慮せずに食いな」


 「ありがとうございます、マルタさん。でも、私、お返しできるものが何も……」


 「ばかお言い。助け合いは辺境の法だよ。あんたが庭を綺麗にしてくれれば、うちの空気も美味くなるんだから」


 マルタのしわがれた、しかし底抜けに温かい声と、少し塩気のあるスープの味に、リーリアは自分でも驚くほど声を上げて泣いてしまった。

 王宮では、誰も彼女に「美味しいものを食べて休め」とは言ってくれなかったからだ。


 王宮で白い手袋に守られてひたすら祈るだけだった華奢な手には無数の水疱ができ、それが潰れ、やがて硬く分厚い皮膚へと変わっていった。爪の間には土が入り込み、すっかり荒れてしまった。

 夜になると全身の筋肉が悲鳴を上げ、寝返りを打つことすら困難な日もあった。

 それでも、一切の苦ではなかった。自分の手で土を耕し、自分の足で水を汲み、汗を流す。その疲労が、誰のものでもない、自分自身の人生の手触りだった。


 一月が過ぎる頃、荒れ果てていた薬草園は見違えるほど美しく蘇っていた。

 庭の各区画に、水路から澄んだ水が均等に行き渡るようになり、白薄荷、姫竜胆、七色草、月見草といった実用的な薬草たちが、持ち込んだ種からも元気に芽を出し、青々とした葉を広げていた。


 「おねえちゃん、こんにちは!」


 「また膝をすりむいたの? ルカ。昨日転んだばかりなのに」


 街の子供たちが、毎日のように顔を出すようになっていた。鍛冶屋の息子であるわんぱくなルカを中心に、彼らはリーリアの庭先を遊び場の一つにし始めていた。


 リーリアは、母の遺した図鑑の知識と、実際に草むらで集めた薬草を頼りに、彼らの小さな怪我や軽い腹痛を無償で治療した。

 体の中に封じ込めた膨大な聖女の力を使えば、折れた骨すら一瞬で治すことができる。だが、その衝動を固く抑え込んだ。

 薬草をすり鉢で丹念にすり潰して軟膏を作り、冷たい水で傷口を洗い、自分の指先で優しく薬を塗って布を巻いた。


 「痛くない? ルカ」


 「うん、あったかい! おねえちゃんの手、ごつごつしてるけど魔法みたい!」


 泥に汚れ、皮が硬くなった自前の手。その手を真っ直ぐに褒められたことが、王宮の司祭たちから称賛されるよりも、ずっと嬉しかった。


 そして。

 辺境伯麾下の騎士団長、ノエル・クレヴィスが薬草園を訪れたのは、リーリアの生活がようやく軌道に乗ってきた頃のことだ。


 漆黒の髪に、すべてを見透かすような鋭い眼光。体躯が良く、軍服姿に大剣を背負ったその男は、自身の背丈ほどもある大きな猪の魔獣を、涼しい顔で片手で引きずってきた。


 「森に迷い込んでいた。解体はすでに部下にすませてある。食べるだろう」


 庭先にドサリと落とされた上等な肉塊の山を見て、リーリアは目を丸くした。


 「は、はい……ありがとうございます。でも、こんなにたくさん……保存する塩も足りませんし」


 「薬草師の仕事は重労働だと聞く。肉を摂らなければ倒れる。倒れられたら、困る。塩と薪は明日、私が割って届ける」


 「えっ、いえ、それでは申し訳ありません。お代をお支払いしないと……」


 「代金など不要だ。辺境の民を健やかに生かすのも、我々騎士の役目だ」


 それだけ言い残して、ノエルは疾風のように去っていった。


 その日を境に、ノエルは頻繁に薬草園に現れるようになった。


 雨の翌日、雨漏りをしている箇所を見つけると、ノエルは梯子を持って現れ、半日で頑丈に屋根を補強した。

 リーリアが稀少な薬草を求めて深い森へ採集に行こうとすると、偶然を装った彼がすでに街道の入り口で腕を組んで待っており、魔獣避けの護衛として同行した。


 ある日、リーリアが井戸で重い水桶を二つ両手に下げて運んでいると、横からノエルの大きな手が伸びてきて、無言で片方の桶を取り上げた。


 「あっ。あの、ノエル様。いつも申し訳ありません。でも、これは私がやります」


 「無理をするな。あなたの手はこれ以上、ひび割れる必要はない」


 そう言って眉を寄せる彼に、リーリアは毅然として首を振った。


 「いいえ、ノエル様。水汲みも土いじりも、今の私の大切な日々の仕事です。親切に手伝ってくださるのは本当に嬉しいですが、私が私の足で生きるための役目まで、奪わないでください」


 少し強い口調でぴしゃりと言い放つと、ノエルはわずかに目を見開き、そして観念したように短く息を吐いた。


 「……分かった。私の配慮が足りなかった。ならば、半分だけ持たせてくれ。それなら文句はあるまい」


 彼は大きな手で桶の片側の持ち手を掴み、リーリアの歩幅に合わせてゆっくりと歩き出した。


 ノエルは口数が少ない。しかし、リーリアに向ける視線は常に深く、隠しきれない熱を帯びていた。薬草をすり潰す彼女の横顔を、何かかけがえのないものを見守るようにじっと見つめている。


 ある午後、街の若い行商人がリーリアと親しげに薬草の値段を相談していたとき、ノエルは庭の奥から一言も発さずに歩み寄り、リーリアの背後に立った。

 ただそれだけだった。何も言わない。何もしない。ただ、行商人の顔が引き攣るほどの気配だけがそこにあった。


 行商人が商談もそこそこに引き上げたあと、リーリアは振り返って少し呆れた目でノエルを見上げた。


 「……ノエル様。お客様が怖がっていましたよ」


 「そうか。別に何もしていないが」


 悪びれもしない横顔に、リーリアはため息をつくべきか笑うべきか迷った。


 ある秋の夕暮れ時。庭先の丸太に腰掛けて薬草の選別をしながら、リーリアは尋ねた。


 「ノエル様は、どうしてこんなにも、私に気をかけてくださるのですか」


 ノエルは少し離れた木の柵によりかかり、オレンジ色の空を見上げたまま、静かに答えた。


 「三月前、あなたがボロボロの姿でこの街に着いた翌朝、巡回で通りかかると、あなたは井戸端で血豆だらけの手を冷たい水で洗いながら、それでも庭の雑草を一本引き抜いていた。——あの手を見た瞬間、足が止まった」


 ノエルは距離を保ったまま、真摯な黒い瞳をリーリアに向けた。


 「あなたは誰の助けも借りず、この荒れ地を蘇らせた。ルカたちの傷を、自らの手で丁寧に治した。私は、あの日からずっと……あなたのその生き方に、惹かれている」


 少し間を置いて、声が低くなった。


 「正直に言う。私は今、あなた以外のことをまるで考えられない。それが、あなたにとって迷惑なことかもしれないと分かっていても」


 リーリアの心臓が不規則に跳ねた。


 「……私は、そんな立派な人間ではありません。ただ、もうこれ以上、誰かに利用される人生が嫌だっただけです」


 「いいや。あなたはとても強い人だ。だが、一人で何もかも無理をして抱え込みすぎる」


 ノエルはゆっくりと歩み寄り、リーリアの土に汚れた荒れた手のうえに、大きな自身の手をそっと重ねた。


 「私は騎士として剣を振ってきたが、これまで誰かのために本気で膝をつきたいと思ったことはなかった。リーリア、あなたが大切だ。無理にとは言わない。ただ、私の不器用な庇護を受け入れてはくれないだろうか」


 王宮で「システム」や「機能」として扱われてきた自分が、今、一人の人間として求められている。リーリアの目から、七年間流さなかった涙がポロポロと溢れた。


 ノエルは黙って膝をつき、厚い指でその涙をぬぐった。ぬぐいながら、彼の手がわずかに震えていることに、リーリアは気づいた。



【三 もう遅い、決別の宣言】


 穏やかな日々は、秋が深まろうとした頃に破られた。


 薄暗い空全体にガラスのひび割れのような亀裂が走り、赤黒い斑点が浮き出た。大規模な魔素の漏出。王都の大結界が限界を迎え、崩壊を始めている確かな兆候だった。

 リーリアは薬草園の庭で、冷たい風に揺れる白薄荷を見つめながら、その空を無表情に見上げていた。


 数日後。ヴェルデンの街の広場に、泥にまみれ、王家の軍旗を掲げた騎兵の部隊が乗り込んできた。

 その先頭で馬から転げ落ちるように降りたのは、顔色は土気色に汚れ、着の身着のままのようにやつれ果てたアルヴィン王太子だった。


 「リーリア! リーリア・ルーシェントはどこにいる!」


 悲鳴のような叫び声に、リーリアはエプロン姿のまま、ゆっくりと広場へ歩み出た。村の大人たちが、警戒しながらリーリアの前に立ちはだかる。


 「私ですが、何か御用でしょうか。殿下」


 リーリアの姿を見た瞬間、アルヴィンの目が大きく揺れた。

 日に焼け、頬に血色が戻り、土と草のにおいをまとい、しっかりと地面を踏んで立っている。半年前の、青白く痩せ細った地下神殿の少女とは別人だった。


 「おお、リーリア……よかった、ずっと探していたぞ。聞いてくれ、セレーネの魔道具が瘴気の負荷に耐えきれず暴走した。結界は崩壊寸前だ。いや、すでに王宮の半分は魔素に侵食され始めている。このままでは国が滅びる。お前の力が必要だ。すぐに戻って、結界を張り直してくれ」


 すがりつくような王太子の目には、かつての傲慢な光はなく、ただ追い詰められた人間の生々しい恐怖があった。


 リーリアは理解していた。彼が憎かったのではない。彼もまた、王の不在という重圧の中で、国を繋ぎ止めるために見える希望にすがるしかなかった、一人の不完全な人間だったのだと。

 だが、理解することと、再びあの場所に戻ることは、まったく別のことだ。


 「お断りいたします」


 「なっ……! なぜだ! 国が滅びるのだぞ!? 王都にいる何万もの何の罪もない民を見殺しにするというのか!」


 「殿下、この空をご覧ください」


 リーリアはひび割れた空を見上げた。


 「瘴気の色と濃度を見れば分かります。魔道具による模倣結界の残滓が魔素と干渉して、術式の土台そのものが焼き切れている。仮に私が今すぐ全力で結界を張り直しても、もう定着しません」


 それは感情ではなく、七年間結界を維持し続けた者だけが下せる、冷徹な技術的診断だった。


 「結界の維持という目立たない礎を切り捨て、一時的な力にすべてを賭けたのは殿下ご自身です。ご自分の選択が招いた結果の責任を、追放したただの平民に押し付けないでください」


 「き、貴様! それでも聖女か!」


 リーリアの静かな拒絶に、アルヴィンは恥辱と絶望で顔を真っ赤にした。


 「騎士ども! 構わん! この女を引っ捕らえろ! 魔法陣の礎に縛り付けて、命の最後の一滴まで魔力を搾り取ってでも結界を回復させるのだ!!」


 王宮の衛兵たちが剣を乱暴に抜いた瞬間。

 地面が揺れるような重い衝撃音とともに、アルヴィンの足元の石畳に漆黒の大剣が突き刺さった。


 「――それ以上、その方に指一本でも触れるならば」


 砂埃の中から現れたのは、ノエル・クレヴィスだった。その後ろには、辺境伯麾下の精鋭騎士たちが完全武装でずらりと並び、王宮軍を完全に包囲している。

 ノエルの立ち位置は、リーリアの真正面だった。自分の体で、彼女への一切の接近を遮断するように立っている。


 「ク、クレヴィス騎士団長……! なぜ止め立てする! 王家への叛逆だぞ!!」


 「叛逆ではありません。王宮より正式に『追放』された平民の保護と権利は、辺境伯領の管轄です。我が領地の民を強権で連れ去る行為こそ、辺境への宣戦布告と見なします」


 冷静な声だった。だが、大剣を引き抜く際にノエルの指が石に食い込むほど握り締められていたことを、リーリアだけが見ていた。


 「頼む、リーリア。せめて修復の代替方法だけでも教えてくれ! お前なら古代の術式を知っているはずだ。このままでは、国が……」


 アルヴィンがその場に膝をつき、絞り出すように懇願した。


 リーリアはノエルの広い背中越しに、かつて仕え、見限り、見限られた男を見下ろした。胸の痛みがないわけではない。だが、ここで折れれば、搾取の構造に戻ることと同じだ。


 「私はもう、国を維持するための『機能』ではありません。ただの薬草師です。それに、もう手遅れなのです」


 「お引き取りを」とノエルが最後通告を突きつけると、アルヴィンは顔を両手で覆い、獣のような絶望の呻き声を上げながら地面に伏した。

 彼らはなす術もなく、崩壊していく王都へと引き返していった。


 衛兵たちの馬蹄の音が完全に消えたあと、ノエルはリーリアのほうを振り返った。


 「怖い思いをさせた」


 「いいえ。ありがとうございます、ノエル」


 リーリアが微笑むと、ノエルは安堵したように息を吐き、それから低い声で付け加えた。


 「もし次に来たら、今度は刺す」


 「それはやめてください」


 リーリアは少し笑ったが、彼の目が笑っていないことには気づいていた。



【四 自己の選択と居場所】


 それから一月が経ち、辺境の森の木々が葉を落とし、世界は厳しい冬の足音を聞き始めていた。


 結界が完全に崩壊した王都の大混乱は、辺境のヴェルデンにも波及していた。王都近郊の瘴気に追われた難民が次々と街の入り口に流れ込み、広場には魔獣避けの仮設テントがいくつも並んだ。

 行商人からの情報によれば、アルヴィン王太子は結界崩壊と初動対応の遅れの責任を問われて国王により廃嫡のうえ幽閉され、偽聖女セレーネは魔道具の不正使用で極刑に処されたという。


 リーリアは朝も夜も、怪我や発熱を抱えた難民たちの治療に走り回っていた。


 夜明け前に薬草園で朝露に濡れた葉を摘み、すり鉢で擦り潰して軟膏を仕込む。日が昇れば仮設テントを回り、傷の手当てや解熱の処方を続ける。

 王都から逃げてきた老人の震える手を取って薬湯を飲ませ、母親とはぐれて泣きじゃくる幼い子供の額に冷たい布を当て、名前を聞いて、呼んでやる。


 聖女の力を使えば、この広場の全員を一瞬で治せるだろう。だが、リーリアはその力には手を伸ばさなかった。


 ある晩、仮設テントの隅で、疲れ果てて座り込んでいた老婆がリーリアの手を握った。


 「あんた、王都にいた頃の聖女さまなんだろう。行商の人が言ってたよ」


 リーリアは一瞬だけ息を呑んだが、首を横に振った。


 「いいえ。私はただの薬草師です」


 「そうかい。……でも、あんたの手は温かいねえ」


 老婆はそれだけ言って、リーリアの手を握ったまま眠りに落ちた。


 「リーリア。限界だ。少しは休んでくれ」


 仮設テントの入り口に、難民の誘導と物資の確保の指揮を終えたノエルが立っていた。彼はリーリアの手からすり鉢を受け取り、代わって自らが薬草をすり潰し始めた。

 その大きな手が、慣れない作業にもたつきながらも、丁寧に力を加減しているのが分かった。


 「ありがとうございます、ノエル。でも、あともう少しだけ」


 「相変わらず、無茶ばかりする」


 ノエルはため息をつきつつも、リーリアの隣で作業を止めなかった。


 「王都の状況は、悲惨の一途をたどっているらしい。この難民たちを見て……あの選択を後悔してはいないか?」


 作業をしながら、ノエルはぽつりと尋ねた。


 リーリアは手を止め、テントの外で焚き火を囲む人々と、その向こうで霜に濡れながらも根を張る薬草園を見つめた。


 「罪悪感がないと言えば嘘になります。でも、後悔はしていません。私は、私の意志で、ここで薬草師として生きることを選びました」


 それだけ言って、また手を動かし始めた。


 「そうか」


 ノエルは深く頷き、作業を終えたリーリアの荒れた両手を、自身の手で丁寧に包み込んだ。

 彼はリーリアの手のひらの硬くなった部分に触れ、しばらく黙っていた。


 「……あなたがどういう道を選び、どこで生きようとも。私はあなたを守り続ける。もう二度と、誰にもあなたを傷つけさせない」


 「……相変わらず過保護すぎます。でも、ここは私の薬草園ですから、私も自分の足でしっかり立ちますよ」


 「構わない。あなたが立つ後ろで、私が壁になろう」


 リーリアがくすっと笑うと、ノエルはふっと表情を緩めた。それから、包んでいた手をなかなか離さなかった。リーリアも、振りほどかなかった。


 やがて二人は再び医療テントへと戻り、新しい難民たちの治療のために隣り合って働き続けた。


 薬草園の入り口に咲く白薄荷が、もうすぐやってくる冬の風に吹かれても折れることなく、ただ清々しく空へ向かって揺れていた。


—— 了 ——

お読みいただきありがとうございます。


王宮で「機能」として生きたリーリアが、辺境で「ただの人間」を取り戻す物語でした。

楽しんでいただけたなら嬉しいです。


別の短編も公開しています。ご興味があれば、作者ページにお越しください。


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― 新着の感想 ―
もうシステムの根幹が壊れちゃってたかー 壊れた原因も偽聖女の所為かー それじゃ断られても仕方ないね☆ でもそれなら「聖女の力を使えば一瞬」って描写は要らなかったかもねぇ 出来る事をしないであえて無辜…
特定の人に頼ったシステムは何時かは崩壊するから、先を見据えて対策を行わなかった王族と貴族達の責任だよね。
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