消失に順ずる解答
一度だけ、友人と談笑しながら歩く彼女と廊下ですれ違ったことがある。彼女は僕の方を見ようともしなかった。単純に気づかなかっただけなのかもしれない。でも僕にはそうは思えなかった。
そんなわけで、僕は彼女の笑顔というものを真正面から見たことがない。
「おい、アイツ、来てないか」
まだコートを手放せない3月の始め、部室の戸口に現われたのは彼女ではなかった。
彼女の『彼氏』、僕の大学での唯一の友人だった。そして、猫の額ほどに狭い僕の世界において、彼が言う『アイツ』とは、彼女のことに他ならなかった。
「…来てないよ」
僕は珍しい客人の来訪に、読んでいた本から顔を上げる。珍しい、というか、大学3年も終わりに差し掛かるこの時期になって、初めての来訪だ。
彼女はと言えば、ここ数か月、この部室には来ていない。
それを伝えると友人は、真っ黒な短髪をがしがしと掻いて、「ああ、くそ」と呟いて僕の正面の席にどっかりと座った。
「年が明けてから、連絡が取れないんだ。お前がアイツに最後に会ったのはいつだ?」
「10月のあたま…くらいじゃないかな」
そう言って、随分長いこと彼女に会っていないことに気が付いた。道理で我ながら読書のペースが速いと思った。
「そうか…」
彼は表情を曇らせる。精悍な顔に、疲労の色が見える。黒スーツにベージュのトレンチコートという出で立ちだった。浅黒い肌の彼によく似合っている。しかし、長いこと着用しているのか、ところどころに汚れや皺が目立つ。
「就活の最中?」
「まあな。今日は朝から面接だった。…その後ずっと、アイツを探して回ってる。アイツは一人暮らしだから、実家にも確認してみたんだが、正月は実家に帰ったけど、今はこっちに戻ってる筈だって言うんだよ。アイツの友達もバイト先も、行方を知らないって言うし」
彼はため息をつき、机に肘をついて頭を抱える。
「…ったく、どこに行っちまったんだ…」
僕はそんな友人の姿を、何か別の生物を眺めるような気持ちで見ていた。
彼女の基準で言えば、彼は『人間合格』になるのだろうな、と思った。
「…どうして、ここに彼女がいると思ったんだい?」
今度は、彼が別の生き物でも見るように、まじまじと僕を見た。
「…お前、本当にわからないのか」
「何を」
「アイツは、お前のことを信頼してた」
僕は目を瞬いた。そんなのは初耳だぞ?
「どこをどう解釈したらそうなるんだろう」
彼女がこの部室でしたことと言えば、僕の貴重な読書時間を悉く奪い去り、どうでも良いような疑問の回答を求め続けた挙句、終いには僕を『人間失格』扱いしたことくらいだけれど、どれをとっても信頼している相手に対する行為とは思えない。
友人は再びため息をつき、少し考え込む。彼にしては珍しく、言おうか言うまいか悩んでいるように見えた。やがて決意したのか、僕の目を覗き込んで、様子を窺うように言った。
「…アイツに最後に会ったとき、何の話をした?」
「『人間失格』の話」
「は?」
僕は、彼女との会話をかいつまんで話した。友人は呆けたような顔でそれを聞いていたが、聞き終わると何やら複雑そうな表情になった。
「それで、お前はなんて言ったんだ」
「人間なんて、本当の意味で他人に共感できない、とか、そんなことを言った気がする」
それを聞くと、彼は眉間に皺を寄せた。
「…あのさ、俺、回りくどいことは嫌いだから、簡潔に言うぞ」
「どうぞ」
「お前、それはないだろ」
僕は改めて彼の目を見た。そこには微かに、嫌悪と軽蔑の色が浮かんでいる。
「アイツは、他人に共感できない自分に悩んでいたんだろう?それはさ、共感できる人間になりたいと思ったからだろ?人間は皆共感しあえないとか、絶望的なことを言ってアイツが慰められると思うか?」
「僕は、思ったことを言っただけだよ。彼女を慰める、とかそんな意図でなく」
僕が言うと、彼は机にばん、と両手をつき、立ち上がった。
「だから、それがおかしいだろ?そこは普通、彼女を慰めてやるところだろうが。…自慢じゃねえけどな、俺は、アイツにそういう相談を持ちかけられたことがねえんだ」
彼は、必死で感情を抑えているように見えた。その表情は怒りというより、今にも泣きそうな顔だった。
「いつもそうだ。アイツは俺に対して弱音を吐かなかった。本当に抱え込んでいることは言わないで、わざと我儘を言って甘えたり、笑ったりしてた。それを見てるのがツラくて、俺は、アイツの支えになってやりたかったのに」
「それは惚気?」
僕のぼやきは聞き流し、彼は僕に指を突きつけた。
「お前は、それが出来たはずなんだ。お前が、アイツの弱音にちゃんと付き合ってやれば、アイツはいなくならなかったのかもしれないのに」
それは八つ当たりだ、と僕は思った。同時に、彼女がいなくなった理由がわかった気がした。
「…だってそれは、僕の役目じゃないから」
僕は彼から目を逸らし、机の上を見つめて言った。いつか彼女が叩き潰した虫の体液が、うっすらと残っている。
「君の役目だ」
「…じゃあ、どうすればよかったんだ」
友人は、覇気を失った声で言った。再び、音を立ててパイプ椅子に座り込む。
「どうしたら、アイツの支えになってやれたんだ?」
僕は答えなかった。
結局、どれが本当の彼女だったのだろう。
友人に囲まれて談笑する彼女か。彼氏に甘える彼女か。それとも―仏頂面で僕に暴言を吐く彼女だったろうか。
きっと彼女は、明確な答えを求めていたのだろう。『他人に好かれる自分』という答えを、模索していたのだろう。いつも僕に疑問をぶつける時と同じように。それが、『人間失格』という疑問の真意だったのではないだろうか。そしておそらく、まだ彷徨っている。
もしかしたら、と僕は思う。彼女は僕のことを同類だと思っていたのかもしれない。彼女が列挙した僕の『人間としての落第点』は、他でもない彼女の『落第点』だったのではないだろうか。
―自覚がない、感情がない、友達がいない…
多くの友人に囲まれ、憔悴するほど心配してくれる彼氏がいながら、心が満たされなかった女の子。
彼女の真意は、もう誰にもわからない。