混沌に基づく混乱
「私って、人間失格?」
例によって唐突に彼女の声がした。心なしか沈んだ声に顔を上げると、いつものように部室の戸口に仁王立ちになり、机をじっと睨んでいた。
折しも僕は太宰の『人間失格』を読んでいた。思わず本の表紙と彼女とを交互に見る。
「どうしたの」
とりあえず聞いてみる。彼女は僕の正面にあるパイプ椅子に腰かけ、両手で頬杖をつく。口を尖らせ、机の真ん中あたりをぼんやりと見つめて言った。
「私、他人に共感できないの、心の底から。友達の話を聞いて、とりあえず『それわかるー』とか言ってみるけど、本当は全然わかってないの。何が言いたいかわかる?」
わかると思う、と僕は言ってみた。
「わかると思う」彼女は繰り返した。
「そうね、そういう感じ。わかるような気がするだけ。バイト先でこういう嫌なことがあったの、とか、彼氏のああいう態度が許せない、とか、口では『わかる』って言うんだけど、本当は『ふうん、それで?』って思ってるの」
彼女はそこでようやく僕を見た。
「ね、これって人間失格?」
「どうして、そんなことを聞くの」
逆に聞き返すと、彼女はしおらしく目を伏せる。なんだろう、いつもと様子が違う…気がする。
「時々、友達に言われるの。適当に会話してるとね、『本当にそう思ってる?』って」
「友達、いたんだ」
彼女はキッと僕を睨み付けた。
「貴方と一緒にしないで」
「失敬」
そうは言ったけれど、僕は彼女に友人がいることぐらい知っていた。ついこの間のことだ。複数の友人に囲まれている姿や、手を振って挨拶する姿を、大学の構内で見かけた。そもそも学科が違うので見かけることは滅多にないけれど。その時の彼女は―月並みな表現だけれど―花が咲いたような笑顔を、友人たちに見せていた。
僕は読みかけの『人間失格』に栞を挟み、机に置いた。たまには真剣に彼女と向き合ってみよう。質問の趣旨といい、妙に沈んだこの空気といい、今日の彼女はどうやらいつもと違うようだ。
「じゃあ、どうしたら『人間』に『合格』できると思う?」
「少なくとも貴方は『失格』ね」
彼女はつんとそっぽを向いて答えた。おいおい、そういうことを聞いてるんじゃないんだぜ。すっかりいつも通りじゃないか。さっきまでのしおらしい態度はどこへ行った。
と、いうか…怒っている?何か気に障ることを言っただろうか。
「僕のどこが『失格』なんだろうか」
「その自覚が足りないところかしら」
ごもっとも。…いやいや、まったく自覚がないわけじゃないけどね?
「自覚がない、感情がない、友達がいない…」
…いやいや、友達なら一応いますよ?君の彼氏が。
彼女は僕の『人間』としての落第点を、指折り数えて列挙し始めた。白い指が1本、2本と折り曲げられる。少し考えるように沈黙し、首を傾げ、また思いついたように指を折る。絹のように細い茶髪が、頬に数本、はらりと落ちる。睫毛が長いな、とぼんやり思った。
「…人の話を真面目に聞かない」
彼女はそんな僕の心境を読み取ったように、上目づかいで僕を見た。見れば、彼女の指はいつの間にか両手10本すべて折り曲げられていた。どうやら僕は、彼女の容姿に見とれるあまり、彼女の言葉を聞き逃していたらしい。確かに、話を真面目に聞かないと責められても言い訳できない。聞き逃してしまった僕の残りの落第点も気になるところだ。しかし。
「…じゃあ、それが全部なければ『合格』できる?」
「…どうかしら」
彼女は両手を組み、窓の外を見た。僕もつられて見る。銀杏の木が黄色く色づき、夕暮れが空を赤く染めている。季節は秋。暖房を入れるほどではないけれど、風が冷たくなってきたので、最近はずっと窓を開けていない。大学構内には、スーツ姿の学生が目立つようになった。就職活動が始まっているのだ。かくいう僕らも3年生。
そうか、と思った。だから彼女は、こんなことで悩んでいるのかもしれない。
「『合格』なんて、誰が決めるんだろう」
僕は呟くように言った。それは自然に口から出た。
誰が決めるんだろう。社会だろうか。周囲の人間だろうか。それとも、もっと身近な。
彼女は答えない。
「君は、『人間』に『合格』できたら満足できる?」
僕は彼女に聞いた。今日は彼女に聞いてばかりいるような気がする。
彼女は僕を見た。いつもの拗ねたような、睨み付けるような目ではなく、どこか虚ろで、意思のない目で。
「…それがわからないから、困ってるの」
長いこと黙ってから、彼女は口を開いた。
「だから『人間失格』の貴方に聞いてみたの」
僕は少し驚いた。彼女がこんな、弱音を吐くなんて思ってもみなかった。今までそんなことはなかったのに。
よりによって、この僕に。
僕は深呼吸して、彼女から目を逸らして言った。
「人間なんて所詮、みんな他人だよ。君は君で、友達は友達なんだから、友達の心に本当の意味で共感することなんて、できっこない。きっと友達だって同じはずだ」
彼女の視線を感じる。照れくさくて目を伏せたままでいると、彼女が囁くように呟くのが聞こえた。
「…私は、私…ね」
顔を上げると、一瞬、呆けた表情の彼女と目が合った。それは本当に一瞬のことで、彼女の瞳はすぐに、いつも通りの強気な光を取り戻した。拗ねたように、例の形の整った唇を尖らせる。
「…貴方はいつもそうやって、人を見下したような言い方をするのね」
そう言って、がたん、と席を立って部屋を出て行った。
不満なら来なきゃいいのに。いつものように僕はそう思った。
「一つだけ確かなことは」彼女が閉めた扉を見つめ、僕は呟く。
「本当に『人間失格』な奴は、そういう疑問すら持たないと思うんだ」
僕のように。