生命に連なる討論
「虫って可哀相だと思わない?」
彼女はぼんやりと壁を見つめながら言った。
7月も下旬、大学は試験期間に入っていた。生憎中庭には二羽ニワトリはいないようだけれど、代わりに無数の学生がニワトリよろしく右往左往している。試験なんて余裕だから、と私用に急ぐ学生もいれば、なんとか単位を落とさないよう教授と同級生との間を奔走している(ように見える)学生もいる。
僕はと言えば、もともと少なかったテストが午前中で終わり、午後も特に予定がない。帰宅しても構わないけれど、屋外は気温32度の真夏日。どうせ涼むなら大学の電力を思う存分浪費してやろう、という魂胆でいつもの空き部室にいつものように読書しようとやってきたところである。
しかしそこには先客がいた。
「人間には嫌われるし他の動物には食べられちゃうし」
本棚前のパイプ椅子に座った彼女が続ける。机に頬杖をつき、優雅に脚を組んでいる。窓はきっちり閉められ、真正面に位置するエアコンの風が彼女の前髪を揺らす。
僕は彼女の言葉には答えず、遠慮がちに言ってみた。
「…そこは僕の特等席なんだけれど…」
「他の動物はまだいいわよ」
華麗にシカトされた。
「…あのさ、」
「自然界は弱肉強食だもの。だけどね、」彼女の語り口は淡々としてはいるが、心なしかヒートアップしてきている。
「嫌悪感とか好奇心だとかで彼らを侮辱するのは人間だけなのよ」
そこまで言ってから、彼女はキッと僕を睨んだ。
「それってどうなの」
「そこまで人の話を聞こうとしないのってどうなの」
僕は諦めて扉側のパイプ椅子に座った。ここまで来たら彼女の話を聞くしかなさそうだ。
「君が言いたいことはよくわかるよ」
「じゃあどうして冷たいお茶の一つも出して貰えないのかしら」
おいおい、と思わず僕は心の中で、彼女の彼氏である僕の唯一の友人に問い掛けた。君は一体彼女の何処を好きになったんだい。
溜息をついて冷蔵庫から冷えた烏龍茶を出し、グラスに注いで彼女の前に置いた。けれど彼女はそれを飲もうとはせず、腕を組んでじっと睨みつけている。
そのまま何も言わないので、烏龍茶を一口飲んで、僕の方から話の続きを切り出すことにした。
「確かに僕たち人間の虫に対する仕打ちは酷いかもしれない。虫嫌いの目に止まれば問答無用で殺されるし」
彼女は強く頷く。
「研究家や子供の目に止まれば実験台にされたり観察されたりするしね」
「虫を劣っているものと決め付けて、『虫けら』なんて表現を生み出す」
「そう」
「虫だってただ一生懸命に生きているだけなのに」
「そうよ、そうなのよ」
一体僕らはいつの間に昆虫擁護論者になったのか。
烏龍茶の氷が思い出したようにカランと音をたてた。相変わらず彼女には口をつける気配はない。
「害があるモノはともかく、私達はどうして彼らを嫌悪するのかしら?」
僕が質問を理解できず黙っていると、彼女は呆れたように僕を一瞥して言い直した。
「どうして彼らに対して『気持ち悪い』って思ったりするのかしら」
「神様がそう創ったから」
「…私、貴方のそういうところ嫌いよ」
「それは光栄だね」
彼女はまた顔を正面のエアコンに向けた。今日はノースリーブのパーカーを着ている。夏なのに真っ白な腕と華奢な肩があまりに涼しげに見え、逆に心配になって寒くないか、と尋ねると無言でかぶりを振った。
「誰か一人でも、そこにいるだけで嫌悪される彼らの気持ちを考えたことがある?」 僕は先程から、彼女が『彼ら』という言葉を選んで使っていることを興味深く感じていた。彼女は虫をあくまで自分達と対等の立場で扱っているのだ。
「少なくとも今、君が考えてくれているじゃないか」
「例えばこれが人間だったら、多くの人は同情したりするのよ。人間が殺されたら犯人に対して憤ったりするのに、自分が踏み付けた虫にも遺族がいるかもしれないなんて夢にも思わないのよ」
「…そこまで考えて生きていたら疲れそうだけれど」
僕は彼女の凛とした横顔に見とれた。それは確かに綺麗だったけれど、畏れを感じさせる類のものだった。彼女の崇高な考えは素晴らしいけれど、少し異常に思える。
それは人間という生き物の傲慢に過ぎないのではないか。虫はきっと生きていくのに精一杯で、人間のように余計なことを考えるヒマなんてないのではないか。
それともそういう考えこそが傲慢なのだろうか。
余計なことを考えていたら訳がわからなくなってきたので止めた。代わりに彼女に言った。
「理不尽な理由で命を奪われるのはどんな生き物であれ同じだよ。虫も哺乳類も人類も平等にね」
彼女は僅かに目を見開いて僕を見た。前に何度か見た、まだあどけなさを残した表情で、まるで僕がここにいることに初めて気が付いたように。
ああ、そうか、と思った。あいつは彼女のこういうところを好きになったのかもしれない。
「…そうね」彼女はまた視線を烏龍茶に戻した。
「大切なのは命の尊さを忘れないことよね」
一体いつの間にこんな重く恥ずかしい話題になったのか。
そこでチャイムが鳴り、休み時間の終了を告げた。僕が現実に引き戻されると同時に読書時間の喪失を嘆いているのも意に介さず、彼女は「帰る」と一言告げて立ち上がった。結局烏龍茶はびっしり汗をかいたまま、手をつけられることはなかった。
その時。
机上に濁音で始まる焦げ茶色の虫が、どこからともなくカサコソと現れた。
僕が「あ」と言う前に彼女が動いた。パーンと小気味の良い音が響き、次に机を見ると虫は平たくなっていた。彼女の手にはいつの間にか筒状に丸めたノートが握られている。
「…なんで?」僕が問うと彼女は顔を歪めた。
「だって、気持ち悪いじゃない」
さいですか、と僕は思った。多分、ここでそのノートは僕のだと言っても聞き入れてくれないんだろうな。




