走る王子
王子アルバートは走ることが好きだった。
理由はない。あったとしても、言葉になる前に置き去りにされた。
朝、城の鐘が鳴るより先に彼は走り出す。
石畳を踏み、城門を抜け、霧の残る草原へ。
国王が呼ぶ声も、大臣が差し出す書簡も、宰相の重たい忠告も、風の中でほどけて消えた。
ヒロインと呼ばれる少女、リディアは、何度も彼の背を追った。
恋という名の感情を胸に抱き、言葉を準備し、微笑みを整えた。
だが彼女の視界に映るのは、ただ遠ざかる背中だけだった。
振り向かない。立ち止まらない。
王子は彼女の存在を知らないのではなく、必要としていなかった。
悪役令嬢ディアナは、苛立ちを隠そうともせず、あらゆる妨害を試みた。
噂、策略、偶然を装った事故。
しかしそれらはすべて、走る王子の横をすり抜けていった。
彼は嫌がらせに気づかないのではない。
気づく前に、通り過ぎてしまうのだ。
王子が走る理由を、誰も知らない。
使命でも、逃避でも、鍛錬でもない。
ただ、走っている間だけ、世界が静かになる。
役割も、期待も、物語の筋書きも、呼吸のリズムに溶けて消える。
やがて城では囁かれる。
「王子は王になる気がないのではないか」
「そもそも、我々を見ていないのではないか」
それでも王子アルバートは走り続ける。
王冠の重さを知らぬまま、物語の中心から外れたまま。
ただひたすらに。
誰の声も聞かず、
誰の役にも応えず、
世界を追い越すように走り続ける。




