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走る王子

作者: 南蛇井
掲載日:2026/02/25

王子アルバートは走ることが好きだった。

理由はない。あったとしても、言葉になる前に置き去りにされた。


朝、城の鐘が鳴るより先に彼は走り出す。

石畳を踏み、城門を抜け、霧の残る草原へ。

国王が呼ぶ声も、大臣が差し出す書簡も、宰相の重たい忠告も、風の中でほどけて消えた。


ヒロインと呼ばれる少女、リディアは、何度も彼の背を追った。

恋という名の感情を胸に抱き、言葉を準備し、微笑みを整えた。

だが彼女の視界に映るのは、ただ遠ざかる背中だけだった。

振り向かない。立ち止まらない。

王子は彼女の存在を知らないのではなく、必要としていなかった。


悪役令嬢ディアナは、苛立ちを隠そうともせず、あらゆる妨害を試みた。

噂、策略、偶然を装った事故。

しかしそれらはすべて、走る王子の横をすり抜けていった。

彼は嫌がらせに気づかないのではない。

気づく前に、通り過ぎてしまうのだ。


王子が走る理由を、誰も知らない。

使命でも、逃避でも、鍛錬でもない。

ただ、走っている間だけ、世界が静かになる。

役割も、期待も、物語の筋書きも、呼吸のリズムに溶けて消える。


やがて城では囁かれる。

「王子は王になる気がないのではないか」

「そもそも、我々を見ていないのではないか」


それでも王子アルバートは走り続ける。

王冠の重さを知らぬまま、物語の中心から外れたまま。


ただひたすらに。

誰の声も聞かず、

誰の役にも応えず、

世界を追い越すように走り続ける。

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