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『其方のことは、何と呼べば良い?』

作者: くろめがね
掲載日:2026/01/31

焼きたてのパンみたいな、

あたたかくて、少し甘くて、

お腹が空いていなくても食べたくなるような、

そんな恋のお話です。


 朝になると、家じゅうが少し甘い匂いになる。


 粉と、火と、昨日の名残の酵母の匂い。

 それを胸いっぱいに吸い込むと、まだ眠たい頭でも分かる。


 ――ああ、今日もパンを焼く日だ。


 生地に触れると、ひんやりとしていて、

 けれど捏ねているうちに、少しずつ手の熱を覚えてくれる。


 急ぐとすねる。

 放っておくと、拗ねる。


「はいはい、ごめんね」


 そう言いながら捏ねると、

 ちゃんと応えてくれるから、パンは正直だと思う。


 私はパン屋の娘だ。


 町のはずれの、小さな店。

 特別な看板も、特別な技術もない。


 体は少しふっくらしていて、

 胸が大きいのは母譲り。

 作業台にぶつけては、よく怒られる。


 でも、パンを捏ねるには力があった方がいい。


 焼きたてを割ったとき、

 ふわっと湯気が立って、

 それを見た人が、少し嬉しそうにする。


 ――美味しいものは、正義。


 それが、私の考えだった。


 その日も、いつもと同じ朝のはずだった。


 昼前、店の扉が開いた。

 見慣れない男が入ってくる。


 服は上等。

 仕立ても良い。

 でも、威張ったところはない。


 男は、焼き上がったばかりのパンを見た瞬間、

 ぴたりと足を止めた。


「……」


 声をかけても、聞こえていないみたいだった。


「あの……?」


 ようやく男は、はっとしてこちらを見る。


「失礼。

 これは……何と呼ばれている?」


「パンです」


「……パン」


 ひとつ買い、

 割って、香りを確かめ、

 ゆっくりと口に運ぶ。


 次の瞬間、男の目が大きく揺れた。


「……なんという……」


 言葉が見つからない、という顔。


 食べ終えたあと、男は今度は私を見た。


「其方が、これを作ったのか」


「はい」


「……なるほど」


 一拍置いて、男は真剣な顔で言った。


「まるで、パンだな」


「……え?」


「柔らかくて、温かくて、

 気づけば手が伸びてしまう」


 褒められているのだと思うことにした。


 その男は、翌日も来た。

 その次の日も、その次の日も。


 パンを買って、

 静かに食べて、

 少し考え込んで、帰っていく。


 三日目、男は言った。


「このパンを、国に持ち帰りたい」


「どうぞ?」


「違う。

 いつでも食べられるように、だ」


「……?」


「作り手ごと、迎えたい」


 私は笑った。


「それは困ります。

 ここが家なので」


 男は真剣に眉を寄せる。


「金は?」


「足りています」


「地位は?」


「重そうです」


「名誉を」


「眠れなさそうです」


 全部断ると、男は深く息を吐いた。


「……其方は、なぜ靡かぬ」


「パンが好きなだけなので」


「理解できぬ……」


 それでも男は諦めなかった。


 宝石を持ってきたり、

 絹を差し出したり、

 城付きの職人の話をしたり。


 でも、私の心が少し動いたのは、

 彼がパンを食べるとき、

 必ず最後の欠片まで大切にしていたこと。


 それと、

 私を見る目が、

 最初からずっと変わらなかったこと。


 最後に男は、家族を説得した。


「家族ごと迎えたい。

 パンを生業とする家として、正式に立てる」


 父と母は、言葉を失った。


 私は少し考えてから、首を振る。


「それでも、靡きません」


 男はしばらく黙り、

 やがて覚悟を決めた顔で言った。


「……では」


 一歩近づいて、低い声で。


「妻にすると言ったら、どうする」


 私は、迷わなかった。


「はい、喜んで」


 男は固まり、

 次の瞬間、心から安堵したように笑った。


 出立の朝。


 粉袋と道具と家族を積んだ馬車の前で、

 男――米を主食とする国の王子は、私の手を取った。


「いずれ、王妃になるわけだが」


「はい」


「それでも、パンは焼くのだろう?」


「もちろんです」


「国中の子ども達に配るのだな」


「焼きたてを」


 王子は満足そうに頷き、

 少しだけ声を落とした。


「……困っていることがある」


「何でしょう?」


「皆が、其方をどう呼べばいいのか分からぬ」


 私は少し考えて、微笑んだ。


「パン屋の娘で、いいです」


 王子は驚き、

 それから可笑しそうに笑った。


「欲のないことだ」


「パンが焼ければ、それで充分です」


 一拍。


「……ところで」


「はい?」


「その顔だ。

 もう、米を粉にすることを考えている顔だな」


 私は王子の胸に額を預けた。


「ええ。

 美味しいものは、正義ですから」


 王子は笑い、私を抱き寄せる。


「ならば、

 我が国は米の国であり、

 そして、パンの国になる」


 その腕の中で、

 私は次の配合を考えていた。


 米。

 粉。

 水。

 少しの工夫と、少しの愛情。


 恋も、国も、

 焼き上がりはこれからだ。


ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

パンの匂いが、少しでも伝わっていたら嬉しいです。


美味しいものは正義。

そして、誰かと分けると、もっと正義。


そんな気持ちで書きました。

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