『其方のことは、何と呼べば良い?』
焼きたてのパンみたいな、
あたたかくて、少し甘くて、
お腹が空いていなくても食べたくなるような、
そんな恋のお話です。
朝になると、家じゅうが少し甘い匂いになる。
粉と、火と、昨日の名残の酵母の匂い。
それを胸いっぱいに吸い込むと、まだ眠たい頭でも分かる。
――ああ、今日もパンを焼く日だ。
生地に触れると、ひんやりとしていて、
けれど捏ねているうちに、少しずつ手の熱を覚えてくれる。
急ぐとすねる。
放っておくと、拗ねる。
「はいはい、ごめんね」
そう言いながら捏ねると、
ちゃんと応えてくれるから、パンは正直だと思う。
私はパン屋の娘だ。
町のはずれの、小さな店。
特別な看板も、特別な技術もない。
体は少しふっくらしていて、
胸が大きいのは母譲り。
作業台にぶつけては、よく怒られる。
でも、パンを捏ねるには力があった方がいい。
焼きたてを割ったとき、
ふわっと湯気が立って、
それを見た人が、少し嬉しそうにする。
――美味しいものは、正義。
それが、私の考えだった。
その日も、いつもと同じ朝のはずだった。
昼前、店の扉が開いた。
見慣れない男が入ってくる。
服は上等。
仕立ても良い。
でも、威張ったところはない。
男は、焼き上がったばかりのパンを見た瞬間、
ぴたりと足を止めた。
「……」
声をかけても、聞こえていないみたいだった。
「あの……?」
ようやく男は、はっとしてこちらを見る。
「失礼。
これは……何と呼ばれている?」
「パンです」
「……パン」
ひとつ買い、
割って、香りを確かめ、
ゆっくりと口に運ぶ。
次の瞬間、男の目が大きく揺れた。
「……なんという……」
言葉が見つからない、という顔。
食べ終えたあと、男は今度は私を見た。
「其方が、これを作ったのか」
「はい」
「……なるほど」
一拍置いて、男は真剣な顔で言った。
「まるで、パンだな」
「……え?」
「柔らかくて、温かくて、
気づけば手が伸びてしまう」
褒められているのだと思うことにした。
その男は、翌日も来た。
その次の日も、その次の日も。
パンを買って、
静かに食べて、
少し考え込んで、帰っていく。
三日目、男は言った。
「このパンを、国に持ち帰りたい」
「どうぞ?」
「違う。
いつでも食べられるように、だ」
「……?」
「作り手ごと、迎えたい」
私は笑った。
「それは困ります。
ここが家なので」
男は真剣に眉を寄せる。
「金は?」
「足りています」
「地位は?」
「重そうです」
「名誉を」
「眠れなさそうです」
全部断ると、男は深く息を吐いた。
「……其方は、なぜ靡かぬ」
「パンが好きなだけなので」
「理解できぬ……」
それでも男は諦めなかった。
宝石を持ってきたり、
絹を差し出したり、
城付きの職人の話をしたり。
でも、私の心が少し動いたのは、
彼がパンを食べるとき、
必ず最後の欠片まで大切にしていたこと。
それと、
私を見る目が、
最初からずっと変わらなかったこと。
最後に男は、家族を説得した。
「家族ごと迎えたい。
パンを生業とする家として、正式に立てる」
父と母は、言葉を失った。
私は少し考えてから、首を振る。
「それでも、靡きません」
男はしばらく黙り、
やがて覚悟を決めた顔で言った。
「……では」
一歩近づいて、低い声で。
「妻にすると言ったら、どうする」
私は、迷わなかった。
「はい、喜んで」
男は固まり、
次の瞬間、心から安堵したように笑った。
出立の朝。
粉袋と道具と家族を積んだ馬車の前で、
男――米を主食とする国の王子は、私の手を取った。
「いずれ、王妃になるわけだが」
「はい」
「それでも、パンは焼くのだろう?」
「もちろんです」
「国中の子ども達に配るのだな」
「焼きたてを」
王子は満足そうに頷き、
少しだけ声を落とした。
「……困っていることがある」
「何でしょう?」
「皆が、其方をどう呼べばいいのか分からぬ」
私は少し考えて、微笑んだ。
「パン屋の娘で、いいです」
王子は驚き、
それから可笑しそうに笑った。
「欲のないことだ」
「パンが焼ければ、それで充分です」
一拍。
「……ところで」
「はい?」
「その顔だ。
もう、米を粉にすることを考えている顔だな」
私は王子の胸に額を預けた。
「ええ。
美味しいものは、正義ですから」
王子は笑い、私を抱き寄せる。
「ならば、
我が国は米の国であり、
そして、パンの国になる」
その腕の中で、
私は次の配合を考えていた。
米。
粉。
水。
少しの工夫と、少しの愛情。
恋も、国も、
焼き上がりはこれからだ。
⸻
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
パンの匂いが、少しでも伝わっていたら嬉しいです。
美味しいものは正義。
そして、誰かと分けると、もっと正義。
そんな気持ちで書きました。
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